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春を待つかの如く〜太宰治「待つ」について 第十六回

 “少女は誰を待っていたのか?”
 前回、この長い文章の最初の命題に、私は“少女自身”であると結論づけた。今回はその結論に肉付けを行っていくこととする。

 少女が待っていた“誰か”とは人格性を持っているという点であるが、これは言うまでもない。少女自身は人格性を持っている。ところが、ここで別人格の“少女自身”であると考えると、この作品が急にSF的なものになってしまう。もちろん、そうではない。ここは“新たな自分”と置き換えてもらいたいのだ。
 本作においては、次のような個所がある。

たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて待っているのだ。~『待つ』より

 ここにおいて、否定はしつつも、その“誰か”を春のイメージに重ね合わせている。これは“胸を躍らせて”待つという行為そのものが、春を待つようなイメージと重なるからだと思われる。
 では、春のイメージとは。これには、様々なものが挙げられるであろう。だが、あえて一般的なものを挙げるのであれば、やはり“新”ではないか。新入学、新社会人、新しい職場など、新しい生活をイメージするのではないだろうか。
 もちろん、進学や就職、人事異動などに無縁の者にとっても、寒い冬を終え、精神的にも肉体的にも活動的になるこの季節。何か新しいことを始めてみるには最適な時期だと言えよう。
 つまり、春という季節は、人に新しい何かをもたらすような、そんな風に感じてしまう季節なのだ。それは、もしかしたら“希望”という言葉に置き換えてもいいかもしれない。
 前回までで、本作中の少女は、その“誰か”との出会いに恍惚と不安を抱きながら“希望”を感じていると、私は述べている。
 現代に即してみるならば、例えば三月頃。四月に新たなスタートが決まった者であれば、そこに恍惚と不安を感じても何ら不思議ではない。例え、まだ決まっていない者であったとしても、希望を持つことさえすれば同様のことが起こりえるだろう。
 新たな仲間たちとの出会い。勉強や仕事の内容。この先の一年間。楽しみではあるが、嫌なこともないかと不安にもなる。それでも、うまくやっていこうと“希望”を持つのだ。
 それは周りの環境に対しての“希望”ではない。多少はあるかもしれないが、環境は変えられない。変えられるのは自分だけ。多くの場合は、その環境の中で、うまくやっていける自分に“希望”を抱く。つまり、“新たな自分”に希望を持つのだ。
 この少女の場合も、同様であると私は考える。春を待つかの如く、“新たな自分”と出会うために、駅のベンチに座っているのだ。その姿は、さぞかし滑稽に映るであろう。しかし、決してそうとは言い切れない。
 さて、少々長くなってきたため、今回はこれでやめることとしたい。次回は、この駅のベンチに座るという行為について論じていくこととする。

#太宰治 #コラム

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