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それも日常という話。

ここのところ愚痴ばかりですみません。

仕事キツイなぁという思いが頭の中を占めていて、色んなことをが疎かになっている感じなのです。

ですが、こういう状況を俯瞰してみると、少し捉え方が変わってくるのを感じます。もちろん最初からそうできれば良かったですけど、そうできなかったのは心に余裕が無かったからであって。そう考えると、今は少しだけ余裕ができたからなのかなと思ったりしています。

で、たとえば。

こうやって、苦しいとか、しんどいとか、「ああもう会社辞めたいな、なんで自分ばっかりこんな責められるんだ」とか、そうでなくとも気にしすぎな自分のこの性格は本当に疲れるな、とか。

そういう感情に振り回されているのも、それも「日常」という大きな流れの一つなんだよなと思ったりしたわけです。「生きること」という、より大きな解釈に昇華させちゃうのはちょっとやりすぎな感もありますけど。

楽しいこととか、穏やかなこととか、ホッコリすることとか。そういうのは、たしかに嬉しいし、心安らぎます。でも、それとは反対に、今のように辛いとか苦しい気持ちも、全部自分が受け止めている出来事の一つであって。ポジティブなのもネガティブなのも、全部ひっくるめて、大きな「日常」の渦の中に居るだけなんじゃないかなと。

もちろん、その日常を送る主人公(というと驕った言い方ですけど、あくまで「プレーヤー」という意味で)は自分なわけで、その出来事一つで、人生のかじ取りが大きく変わってきてしまう可能性があるのは事実です。

ですけど、どうせ、日常なんて毎日なんて、良いこともあれば良くないこともある。「良いことがずっと続けばいいなぁ」って、時に願ったりしますけど、そういうわけにはいかなくて。その逆に、どんなに嫌で大変でどうしようもなく疲れる時でも、その辛さはずっと続くものではないと言いますか。

「禍福は糾える縄の如し」

そんな言葉がありますけど、大きな流れとしての日常で見ると、嬉しいこともしんどいことも、そのどれもが何か一瞬なんですよね。過ぎてみれば。

渦中に居る時には「一生続くんじゃないか」なんて思ったりしますけど、実際そんなことは無い。

だったら、こういうものだと割り切って、淡々と物事をこなしていくことだって悪くないんじゃないかと思うんです。

一喜一憂するのも良いですけど、そうすることで、それに振り回されることで、負担に感じたり精神的に参ってしまうのなら、やっぱりその限りなくわずかで一瞬の「喜」なんかに心の拠り所を求めなくてもいいのではないかな、と。そうしていると何故だか「憂」のほうばかり気になってしまいますし。

そんなことを思ったわけです。

良いことがあった時だけ、記事を書くのでもいいです。それも一つだと思います。でも私は、良くない時こそ、きちんと言葉で残しておきたい。そう思いました。後で見返すと、実にみっともない内容なんだろうとは思いますけどね。

でも、誰かのためになるとかそういうことじゃなくて、自分のため。こんなことで苦しんでいたのだ、あの頃の自分は。なんと未熟なことよのぅ。みたいな。

良いことも悪いことも、全部一つの日常。そしてこの現在も、いずれ過去になる。そうした時にまた、その時の日常を過ごしているはずですから。繋がっているようで途切れている。途切れているようで、積み重なっている。まぁ、そんな日もある(あった)ってとこなのかなと思います。

悩みすぎるのはやめて、もっと肩の力抜こう。そうして生きよう。おわり。

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