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愛の言葉の話。

昨日は、息子の機嫌がとても良かったです。

それは、息子の大好きなゲームソフトの発売日だったため。

彼が小学校から帰ってくる前に、予約しておいたソフトをお店から受け取っておき、先行予約特典で貰える品物と合わせてプレゼント包装をしました。

帰宅して彼はすぐその包みを見つけ、中を開けて、満面の笑みで喜んでくれました。

彼は、普段ならやる気の出ない宿題を集中して終え、夕食後に家族みんなでそのゲームをプレイしました。

前作が出てから実に11年ぶりの完全新作の2Dアクションだそうで。様々な仕掛けが盛りだくさんで面白かったです。特に、ワンダーフラワーを取った後のワチャワチャ感はみんなで遊ぶと楽しい。

https://www.nintendo.com/jp/switch/aqmxa/index.html


さて、今回言いたいのはゲームの内容ではなくて。

そうやって、日常の中でワクワクする出来事だとか、何かを楽しみにしていたり、大好きなことに没頭していたりする様子は、すごく愛しいことだなと思うのです。

今の息子にとってそれはゲームであり、スーパーマリオであるのかもしれないですけど、彼が心待ちにしていたこのソフトの話題を持ち出す際には、そこにネガティブな言葉は全くありません。

どうやら彼のクラスメイトの中にもマリオ好きが何人か居るようで、彼らもこの新発売のソフトを予約購入するということを言っていたみたいです。

そうなんだよな。私も子供の頃は大のゲーム好きだったので分かりますが、友達と一緒に同じゲームをプレイするのは、たとえそれがリアルタイムではなくても、楽しいものなんですよね。

当時はオンラインのシステムも無かったですし、みんな家でそれぞれプレイして、翌日学校で「どこまで進んだ?」とか「このステージってどうやってクリアした?」とか情報交換するのがたまらなく楽しかった記憶があります。

息子も、きっと週明け学校の友達とそういう会話をするのかな。そう思うと、いつの時代であっても同じような楽しみ方を提供してくれる、時代を超えて愛されるような、何かゲームという遊びそのものの偉大さすら感じられるものです。

そのソフトの話になると、ニコニコの息子。

ですがここ最近は、いつもイライラしてばかりだったように思います。

それは恐らく、息子自身の問題だけでなく、我々親側の問題も大いに関係しているのかもしれないです。

私も妻も仕事をしていますが、仕事が上手くいかない時や、大きなプロジェクトが動いている時というのは、どうしても気持ちがナーバスになって落ち着かないことがあります。

おまけに、休みの日でも何かと行事が入っていたりして、それがリフレッシュできるようなものであるならまだしも、ここのところは親族の葬儀や法事だったりすることも多かったのです。それが親しい間柄の人のそれであったりすると、当然気持ちは塞ぎ込みます。

そういったことが重なって、大人げないながらも、子供に厳しく当たってしまうことが多かったように思います。

当然、子供の方も、ガミガミうるさく言われて嬉しい気持ちはしません。だんだんとネガティブな言葉も増えていきます。

「こんなに怒るなら、
 俺なんて産まなければ良かったのに」


息子が言ったその言葉に、ハッとします。

こんなことは言わせたくなかった。
ショックでした。

ところで、私は、絶対に子供に対して言わない言葉を決めています。それはこの二つです。

「生まなければ良かった」

「育て方を間違えた」


実はこの二つの言葉は、私が実際に親から言われたものです。前者は母親から、後者は父親から言われました。

これだけ聞くと非情な親であるかのような印象になってしまいますが、全くそんなことは無く。

母も父も愛情深くて、私のことをとても可愛がり、大事に育ててくれていました。

では何故そのような言葉を言われたのかといえば、それは私が彼らに対して反発し、心を開かなかったからだろうと思います。言ってしまえば、当時の私は、親のことが大嫌いでした。口を開けば口論になり、取っ組み合いの喧嘩をしたこともありました。反抗期と言えばそうなのかもしれません。

今となっては、馬鹿なことをしたなぁ、もっと素直になればなぁ、とも思います。どうしてあんなに反発したのか。若気の至りでした。

母は健在ですが、父はすでに他界してしまいました。あの頃もっと私が心を開いて優しくなっていれば、良い関係を築けたのかな。そんなことを思ったりもします。

脱線しました。とにかく。母や父は私のことを愛情を持って接してくれていたはずなのに、私がそれに反発して生意気な言動や不貞腐れた態度をとり、彼らを困らせ、喧嘩をして。挙げ句の果てに、上のような言葉が出てきてしまったのだろうと思います。

その言葉を聞いた当初、私は、「だから何だよ。お前らが勝手そうしたことだろう。こっちは望んでこうなったわけじゃねえよ」くらいなことを思っていました。実際にそう答えたかは記憶にありませんが。なので、そこまでショックを受けたという思いは無かったです。

ですが、その言葉を受け取った私は、何年経っても、10年、20年以上経った今でも、その言葉ははっきり記憶の中に刻み込まれています。もっと言えば、当時、どのような場面でそう言われたのか、私は鮮明に憶えています。

当時ショックを受けなかったにしても、深く深くその言葉は私の心の中に突き刺さり、恐らく抜けることはありません。

これは、私自身の振る舞いに起因した出来事なので、決して親を責めているものではないです。それだけ手を焼く、厄介な子供だったのでしょうから、相当な苦労があったはずです。親がそう言ってしまうのは仕方ないものだと、今になってそう思えます。

それに、恐らく本心ではなかったと思います。実際、現在、母に対して「そういうことがあったよね」と話をしたら、「えっ、そんなこと言ったっけ」と全く憶えていないようでしたから。

ただ、言われた方は憶えています。
つまり、それだけ強い言葉なのです。

言われた方は何の反論もできない。
それまでの人生そのものを否定する言葉です。

私は今では、母のことも父のことも大好きで、感謝してもし足りないです。父は亡くなってしまってそれが叶いませんが、母にはまだ元気なうちに出来るだけの恩返しをしたいと考えています。

ただその一方で、やはりあの言葉は忘れられない。たとえ本心ではなかったとしても、言うべきではなかった。そういう意味では、まだ私にとっては、今も親を許すことができていないのかもしれません。

ですから、話は戻りますが、親となった今、私は子供に対して絶対にその二つの言葉だけは言わないように固く誓っていました。

それを、息子自ら、近しい言葉を言わせてしまったことに、反省しました。申し訳ない。

では、どうすればいいのか。

生まれてきてくれて、ありがとう。
少なくとも私は、あなたが居てくれて嬉しい。


その言葉を、実際に言い続けて、そういう思いで接していく。そうするしかないと思います。

子供側はどう思うか分からない。それは子供が決めるべきことで彼ら自身の人生。

だけど、親としては、感謝しかない。全肯定したい。子供が居てくれたことで、あなたが存在していることで、生まれてきてくれたことで、そのことで私たち親が幸せだと。

綺麗事のような部分もあるかもしれない。けれど、家族を持つなんてことは、言い方は適切ではないかもしれないけれど、親側の究極の自己満足である面は否めないと思うのです。

せめて、このような世界を子供に対して提供してしまった親側の責任として、とにかく子供の人生を否定するようなことはしてはいけない。そう思うわけです。

私の性格上(いえ、もしかしたらそれは私の親からの遺伝や環境的な要素もあって)、過保護になったり過干渉になってしまいそうにもなるのですが、そこはグッとこらえて我慢したりして。

試行錯誤しながら学んで、実践して、そのうえで、少しであっても、私も子供も「ああ、良かった。幸せだ」的な思いを抱くようにできたら、それだけで十分に思うのです。

息子にとってのゲームもそうですけど、それは一つのきっかけに過ぎなくて、日常の中には当然面倒くさかったり苦しかったり悲しいこともあるけれど、それでも「生きてて良かったー」と少しでも思えるものに出会えるよう、ちょっと前向きに生きていきたい。

愛の言葉なんて言うとむず痒いですけど、それは何も特別な表現なんかじゃなくて、何気ない日常の中で人生を肯定してあげるだけだと、そう思うわけです。おわり。

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