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芝生の青さをまだ私は知らない話。

「隣の芝生は青く見える」という、ことわざがある。無知で大変恐縮だが、同義で「隣の花は赤い」というものもあることを、私は最近になって知った。

つまり、芝生だろうが花だろうが、自分も同じ物を持っているはずなのに、他人が持っている物のほうがどうしてもよく見えてしまう、ということだ。

使い古された言葉かもしれないが、ちょっと改めて少し考えてみた話。


そのことわざの表面上にあるのは「羨ましさ」という気持ちだ。

社会人になりたての頃はそうではなかったかもしれない。結婚してからだろうか、子供が生まれてからか。いつからそうなったか意識はしていないが、私は、そういう「他の人が羨ましい」といった感情を持つことがあまり無くなった。単純に、そうやって他の人たちに目を向ける機会が減ったからかもしれない。言い換えれば、自分とその家族のことで精一杯になっているからだという気もする。

幾ら、親しい友人が立派な会社に転職したと聞いても、一等地にあるゴージャスなマンションに住んでいるという話も、かつての同級生がバリバリ手腕を発揮してその道のプロフェッショナルとして紹介されていても、親戚が悠々自適な暮らしをしながら好きな仕事で上り調子の評価を得ているといったことを耳にしても。それらは飽くまでも「その人の人生」であって、今の自分の人生の満足度に影響はしない。

仮にマウントのような情報を提供されたとしても、「そうか、それは良かったね」と素直に返せる。なぜなら「他人事」として捉えているからだ。言っちゃあ悪いが、内心では「そんなことよりウチの方が大事」と思ってしまう。申し訳ないが。(ああ、また私の性格の悪さを露呈してしまった)

「社会人になりたての頃はそうではなかったかもしれない」と上で書いたが、今よりもずっと若い頃、学生時代の私は、全く今とは真逆で、もうどうしても他の人のことが羨ましくて妬ましくてたまらなかった。その頃の自分は、燻ぶった劣等感と、ひん曲がった自尊心の塊だった。

もちろん「羨ましいな」という思い自体は、何か行動を起こすための原動力になりうるため、悪いものではないと個人的には思う。しかし、「羨ましい」と思うだけで、外部の世界につながるアクションにエネルギーを割くこともなく、ただただ内へ内へと悶々とした悪感情を募らせてばかりであれば、あまり健康的なものではない。

要するに、「羨ましがっているだけで何も行動を起こさない」というのはタチが悪い。そして、上で書いたように、今よりもずっと若い頃の自分はまさにそういった考え方と生き方をしていたのだ。

あまりその当時のことを書いても、ただの黒歴史を露呈させるだけになるためやめておくけれども、つまるところ何が言いたいかというと、「隣の芝生は青い」(隣の花は赤い)ということのそれ以上でもそれ以下でもないということなのである。芝生は、ここにもある。花も、この手に持っている。だけれど、誰かが持っている物のほうがよく見えてしまう。本当は同じものを持っているはずなのに

上で挙げたことわざには「羨ましさ」が表面上に存在していると書いたが、それは表層にすぎない。深層には、「自信の無さ」や「不安」といったグラグラした不安定な怯えた感情が潜んでいるのだ。だから、自分を、自分の持つものを信じられず、ここには無いどこかにきっとより良いものがあると錯覚してしまう


今後、私の考えがどう変わっていくか分からないけれども、幸いとも言うべきか、今の時点では、「羨ましさ」をあまり感じることもなく、そして「他を求める」気持ちも無い。

けれど、じゃあ「今この場所」を全力で受け入れ、飲み込み、咀嚼して、血と肉として、必然と絶対的な自信を持つことができているか、というと、怪しいところがあるように思う。

そのために必要な心の動きは、「諦め」とかそういった感情ではない。きちんとこの目で見て、これは自分の意志で選んだものなのだと自覚する決意や覚悟といった類のものなのだと思う。そしてそれは思いつきとか一過性のものではなくて、持続して持ち続ける必要があるものだと考えている。

恥ずかしい話、現時点では、私は自信をもってそれを言うことができない。いや、今はある程度、今の日常に満足しているから「これで良かったのだ」と言えるけれど、まだ自信というか覚悟のレベルが足りていないように思う。

今は良くてもこの先はどうなるか分からない。何かの拍子にちょっとでも上手くいかないことがあると、「ああ、もう…」とか「どうせ…」とか「やっぱりなぁ…」と思ってしまうような気がする。

けれどだからこそ、この日々をちゃんと見定めて、大切に扱っていかないといけない。それは、生きると同時に、愛する、ということなのだと思う。

私は弱い人間だから、それを忘れないように心にとめて、折に触れて、そうし続けるように仕向けていかないといけない。

たとえば、今、住んでいる場所は、周りに居てくれる人たちは、させてもらっている仕事は、この目の前にある食べ物は、この肉体と精神を持った自分は、そのどれもが自分でそう選んできた結果なはずだ。そうやって、生きてきた結果がこの今なのだ。

ただそこで終わりではない。終わりにすることもできる。それは「死」などという短絡的な意味ではない。「今」は変わらずここにあるように見えて、絶えず変化している。何もしていなければ「今」はそこで動きを止めたように見えるが、実際には自分が止まっているだけなのだ。だから「終わりにする」ということは意図的に「私はもうここまででいいのだ」と決めてそうすれば、そこで終わりだ。その後もずっと時は流れるが、自分は立ち止まったままなので何も変わらない。それが終わりということだ。

しかし少なくとも、私は終わりにしたいとは思わない。次に繋げていきたいのだ。「今」は過去から受け継いできたものだけれど、未来はこの「今」を繋げていくことで、形作ることができる。

とは言え、何も、常に全速力で突っ走ってむちゃくちゃ鍛錬しながら日々成長していきましょう、とか、意識高くアレもやりましょうコレもやりましょう、とかそんな偉そうなことを言うつもりはない。ただ少しでも、良い未来を想像して、イメージして、今できることを着実にやって、「あぁ、今日やり残したことがこんなにある・・(落ち込む)」という状態を少しでも減らしていけたらいいな、と個人的には思っている。夜寝るときに「よっしゃ、明日もがんばるか」と思えることができるならもうそれだけでも合格

それから、「愛する」という言葉は何だかロマンチックに聞こえてしまいがちだけれど、ここで意味しているのは「大切に思い、扱う」ということだ。ちゃんとその対象のことを考えて、大事にする。甘やかすのではなく。それは人によって様々な意味を持つものだろうけれど、今の私にとっては上で書いた話とリンクしていて。

今を、この瞬間を、自分の行動として悔いなく、それで少しでも「あぁよかった」と思える時間が増やせるように。欲を言えば、自分の周りの人にもそういう時間を共有できるように。そうやって生きていたいなということだ。それが「大切」ということで、「愛する」ということだ。そう私は考えている。

だからやっぱり結論としては、「今」をきちんと生きてあげて、愛してあげないといけないと、私は思う。

上手くいかなくてももうそれは必然。なるべくしてなった。その上でどう行動していくか。今どうするか、真剣に向き合う。目の前のことに注力する以外無い。意志薄弱だからすぐに忘れたり見失いそうになるが、そのたびに向き合い直す。それができるように、続けていく。

大変意識の高い方々の多い note の中で、これほど志低めで恐縮だが、私はこうして生きていく。少なくとも今は。


・・・あれっ、ちょっと待って。

なんか書き出したら、勢いに乗ってバーッと書いてしまったけれど、当初書きたかったことはこういう話じゃなかった。いや、こういうこともたしかに考えていることではあるのだけれど、もう少し下世話な話(下品という意味ではない)を書こうと思っていた。さすがに、今ここからその方面の話を書いてしまうと、あまりに記事の内容がとっ散らかってしまうので、この辺でやめておきます。

というわけで私は、まずは「芝生の青さ」(花の赤さ)を確かめて知っていきたいと思う。というか、もしかしたら、芝生や花の存在自体を、知ることから始めるべきなのかもしれない。ああ、また今回も自己満足の自己完結のお話でした。失礼しました。おわり。

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