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教室内の座席に見た自由さと窮屈さの話。

先日、小学生の息子の授業参観に行ってきました。
その時に感じたこと。


私は、地元から離れたところに家を構えて、家族で住んでいます。

そのため、息子が通っている小学校は、私が通っていたところとは別のところです。

ですが、どうしてか、「学校」という場所自体が苦手で仕方ないんですよね。

授業参観も、息子の頑張りを間近で見るのが楽しみで、私が会社を休んで行くことにしました。妻がちょうど都合が悪い時期で行けなかったということもありましたし。

けれども、学校のあの独特の雰囲気というのでしょうか、なんとも苦手なんです。

「先生」が居て、「生徒」が居て、生徒たちを閉じ込めておく「教室」があって、そこでの先生の存在は「絶対」で。私は生徒側でしたので、先生の言うことを聞かなければならない、そんな空間。かと言って、先生の言うことだけを聞いていればそれで良いかというとそうでもなく。教室内でも、階層のようなものや小集団のようなものがあって、クラスメイト間で力関係が違っていて。

同じ人間なのに、友達だろうがクラスメイトだろうが大っ嫌いな奴だろうと、同じ人間なのに。そして、先生だろうと同じ人間なのに。

なのに、この空間の中では、私は「1生徒」でしかなくて。まるで人間ではないような、そんなような雰囲気が、私はとても苦手だったのです。

ですから、息子の頑張りはもちろん楽しみですけど、現実に通っていた場所は違えど、同じ「学校」という場所に行くことが、なんとなく足取りが重く感じていました。

校舎内にはゾロゾロと大人たちが集まってきて、親同士で親しげに話しているような人たちも居れば、私のようにボッチの父兄も居て。

いざ息子のクラスに着き、教室内に入りました。

すると、ああ、やっぱりあるんですよね。机と椅子が。それはもう教室いっぱいに敷き詰められていて。当たり前なんですけど。

でも、クラスのみんなと一緒に椅子に掛けている息子を見てみたら、彼は笑っているんです。それも楽しそうに。

私はそれを見て、心のつかえがスッと溶けていくような気がしました。ほんのちょっとかもしれないですけど。

息子は、学校を楽しんでいるように見えたんです。私にはできなかったことを、息子がやっている。それを見ただけで、ああ、授業参観に来て良かったと思いました。

授業中の彼の様子とか姿勢は、もちろん授業参観という観点からは興味深くて大切なのかもしれないですけど、息子がクラスの中で楽しそうに笑っている、ただそれだけで私も嬉しくなりました。

そうか、彼と私は、まったく違う人格で、まったく違う人生を歩んでいるんですよね。考えれば当たり前のことなんですけど、私の中にある負の感情と言いますか、そういう「学校」=「窮屈で苦痛な場所」というようなネガティヴなイメージがあって、無意識に、息子も同じ気持ちを持ってしまっているのかな、と勝手に考えていたのです。

もちろん、この先息子が学校を嫌になる日が訪れる可能性はありますが、少なくとも今の時点で楽しそうにしているのであれば、ひとまずそれで良い。私も幸せな気持ちになるのです。

ところで、どうして私はここまで学校を苦手に思ってしまうのか。少しだけ考えてみます。

もしかしたら、「居場所が固定されている」ことがその原因の一つなのかもしれないと思いました。

最先端の学校情勢は分かりませんが、息子の学校の教室を見ると、私の頃と同じように、やはり誰がどこの席に座るかが決まっていました。つまり、動くことができないわけです。授業によっては教室が変わったり座席も変わるようなものもあるかもしれませんが、基本的に場所が固定化され、「自分の場所」がそこにあるわけです。物理的に決まっているだけで、精神的な居場所があるとは限らないのに。

私はどうもこのシステムが苦手です。仲の良い人が近くに居ればまだマシですが、そんなことはそうそうありません。そもそも、社交性も高くない私にとって、友達すら作るのも大変で、ましてやクラス内に楽しくお話したりできるような友達が居ることなど、そうそう無いわけです。

他方で、どこに座るかという場所なんて関係ないという強い意志をお持ちの方も居るでしょうが、私はそう強くありません。すし詰めと言いますか、大人数が一つの部屋に集められて、身動きが取れない状態になされることが、なんとも苦しいわけです。

それでも、小学校、中学校、高校までは基本的にそのような授業ばかりでしたが、大学に上がるとそれが少しだけ変わりました。

大学では、少人数の演習クラスもありますが、それ以外は席の固定が無かったのです。これはとても嬉しかった。好きな場所に座っていい。仲の良い友人が居れば、その隣に座ってもいい。一人ぼっちだとしても、好きに、自由に席を決めて座っていい。よく話を聞きたい授業なら最前列の席に。やる気が出ないような授業なら後ろの席に(不真面目ですみません…)。そうやって、自分で自分の場所を決めて良いというのは、私にとって非常に心地良いものでした。

それが、社会人になると、また少し状況が変わります。

席が決まっているわけです。デスクが、パソコンが、引き出しが、椅子が、自分の場所が割り当てられるのです。会社によってはフリーアドレス制度などを導入している企業もあるでしょうが、私が勤めてきた職場は、やはり「自分の席」というものが決まっていました。

ただ、不思議なことに、そこに「窮屈さ」とか「苦痛さ」が必ずしも結び付いているとも限りませんでした。

そう考えると、問題は他人とのパーソナルスペースでしょうか。

学校は、他人との席が近い。そうか、もしかしたら私は、席が固定されていることに加えて、個人的に相容れない人たちと同じ空間と時間を、近い距離で過ごさなければならないことに、苦痛を感じていたのかもしれません。

今現在、仕事は在宅ワークで行っていますので、もちろん、仕事中に他人との空間を共有する「窮屈さ」を感じることはありませんが、これがオフィスに出社するようになったら、また少し感じ方も変わりそうです。

少なくとも、今は「自由」なのかもしれません。

でも、息子を見ていたら、私が「窮屈だ」と勝手に考えていた場所で、あんなにも楽しそうにしている。私は今この「自由」だと思い込んでいる場所で、あそこまで楽しそうに出来ているだろうか、と。そんなことを思ってしまうわけです。

席だとか、空間とか距離感とか。
友達とか。

結局それらは言い訳に過ぎなくて。たぶん私には覚悟が足りていない。そんなふうな気がするのです。

生きていく覚悟。目の前のことから目を逸らさないで、追いついて食らいついていく覚悟。

そういう意味では、授業参観は、とても勉強になりました。精一杯目の前のことに取り組んで、楽しんで、それが生きることなんじゃないかなと。

いえ、もしかしたら、それに覚悟すら必要なくて、そんなことを考える間も無いほどに、打ち込むことが必要なのかもしれません。子供達を見ていたら、そんなことも思ってみたり。

そう言えば、授業参観後に、教室内に保護者たちと担任の先生だけが残り、懇談会がありました。まあ懇談会と言いますか、話の内容は、来年度のこととか春休みの過ごし方とかで、配られた資料にほとんど書いてありましたが。

それよりも私には、全く話したこともない大人たちが、狭い教室の中で、隣同士近い距離で席に着き、黙って先生の話を聞いている。そんな姿がとても滑稽に思えて仕方なかったです。

いえ、決して馬鹿にしているわけではなくて。子供たち同士は知っているのに、その親たち同士が知り合いではない、ってなんか不思議でした。

そして、この人たちの中にも、もしかしたら、私と同じように、あの頃の「学校」が苦手で仕方なかった人が居たりしたかもしれない。そう思うと、なんだか妙に面白く思ってしまって。

ああ、私はかつて、そのような同志を見つける努力を放棄していたから、見つからなかったのかもしれない。見つからなかっただけで、きっと話せば分かるような人たちは居たのかもしれないなと。そんなことを考えていました。

まあ当時見つけていたとしても、今と何が変わっていたか分からないけれど、もしかしたらそこまで今と変わらないかもしれないけれど、もう少し、学校が好きになれていたのかな、なんて。

思うに、子どもの頃から、やっぱり変わっていないわけです。少なくとも、私は変わっていない。大人になっても、やっぱりそんなに大きくは変わらない。根っこは同じままです。

だとしても、少しずつ歩んで、進んできたのは確かなわけで。

いつか、子供が大きくなったら、こっちが見てきた景色と、そっちから見てきた景色とで、同じところがあれば共有して楽しんで、違うところがあれば視点の変化を楽しんで、そうやって過去を振り返れればいいなと思うわけです。

それから出来れば、子供たちには、自分が味わったような黒く塗り潰された時間を過ごしてほしくはないな、なんてことを願ったりもします。まあでもそれは、私ではなく彼らの人生。彼らなりの打破の方法をきっと見つけるでしょう。

だからせめて私にとって、今は、過去はどうでもよくて、まだ、目の前のことと少しだけ前のことだけ見ていられればいいかなんて思っています。

取り留めも無いですけど、そんなふうなことを思った授業参観でした。

ああ、それにしてもやはり学校という場所は、私にとって良くも悪くもむちゃくちゃ思考をかき混ぜる機会になるんですよね。何だかなぁ。おわり。


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