公私を分けるという話。

ちょっと思うところがあるわけです。

昨今、某お寿司のチェーン店で客の迷惑行為がどうたらとか、それをネット上でアップしてどうたら、テレビや色々なメディアでそれを取り上げて叩いたり擁護したりどうたらこうたら・・という件で。

そもそも、私はあまり、ここ note では時事ネタを扱うことはしないようにしてます。個人的にそういうのに触れて意見を表明することが嫌なので、避けているところがあるんですよね。たとえばこの出来事についても、私はそれに対する見解とか、そういう意見を書くつもりは無いです。反対だとか賛成だとか、良い悪い、そういうのは書きません。

けれど、そのこと自体の意見は表明はしないけど、少し考えてしまうことがあるんですよね。周辺事情と言いますか、構造的な話で。これって恐らく「対岸の火事」ではないよな、と。まがりなりにも、こうしてネット上でタラタラと文章を綴っている立場として、そこでのアレコレといったものはどうしても起きる可能性はあるわけです。

なので、時事ネタは避けると言いつつも、せっかく思考が働いたので、今回は少しだけ記事にしてみます。


まず。タイトルにも書いたのですが、「公私」です。

そもそも「公私」って何なんですかね。辞書を引くと「公に関することと私に関すること」という意味が記されていたりします。では次に「公(おおやけ)」って何?ということで辞書を引くと、こうありました。

1 政府。官庁。また、国家。
「―の機関」「―の費用」

2 個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。
「―のために尽くす」⇔私 (わたくし) 。

3 表だつこと。表ざた。
「―の場に持ち出す」「事件が―になる」

4 天皇。皇后。または中宮。
「おほかたの御心ざま広う、まことの―とおはしまし」〈栄花・月の宴〉

5 朝廷。
「―の宮仕へしければ」〈伊勢・八五〉
goo 辞書より「公(おおやけ)」

多分ですけど、2とか3の意味なのかなと思います。

勝手な解釈ですけど、自分は今生きていますし、生活をしているわけです。そのなかで、人生の時間を使っているのですが、自分一人で出来ることと、そうはいかないこと、って明確に分かれていますよね。

たとえば前者なら、自分の頭で考えるとか、何か楽しいことを考えたり悲しい思いに浸ったり、「自分」という人間を一つの物体として、その内部で起こっていることは基本的に「自分一人で出来ること」なんだと思うんです。まあ出来るというか、動作するというか。

でも、他方で、そうはいかないこと、つまり、自分一人ではできないことは、それよりももっとたくさんあって。それが後者だと思うんですけど。たとえば、会話をするとか、喧嘩をするとか、愛し合うとか、チームプレイでゲームをするとか、会社で他部署の人を巻き込んでプロジェクトを推進するとか。多分にそれは、私以外の「誰か」が間接的にせよ直接的にせよ、関係してくる動作だと思うんです。

そう考えると、前者の方は、自分一人で完結するから、「公私」という言葉でいうところの「私」だし、後者の方は誰か他者が絡むことだから、「公」なのかと思うのです。だって辞書的な意味では「公」って、「個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。」なわけですから、もう他人が関わっている時点で、それはもう「私」ではないよな、と。そう思うんです。

前置きはこのくらいにして、じゃあ「私」と「公」は分かったけれど、問題は「公私混同しちゃいけないよね、気を付けましょう、以上」で終わるかというと、そうではないとも思うわけです。

結局、「私」と「公」というふうに明確に分断できるようなものではない、そんな領域が存在するような気がします。

それは人によって違うのでしょうが、親友だとか恋人だとか家族だとか部活の仲間だとか師弟関係だとか、そういう「公」(つまり自分以外の他人と関わる場面)でありながら、ごく「私」に近い場所がきっとありそうだぞと。

そして、もしかしたらまさにそういう場所でこそ、つい「炎上」が起きてしまうと、個人的にはそんなふうに思うわけです。気を許してしまうと。

たとえば、私なんて偉そうにこんな長々と文章を綴ってますけど、リアルな生活では家の中で子供達の前でふざけてますし、妻と一緒に居る時にはそれこそあらゆることをボロクソにけなしたり愚痴ったりもしています。

ですが、会社では同じようなことはしませんし、当然 note の記事でもそのような態度は一切出さず、ただただ紳士的な人間を振る舞った文章を書いているのです。

なぜなら、それは会社だとか、note を含めたネット社会を「公」と考えているからに他なりません。

こんなことを言ってしまうと人間性を疑われてしまうでしょうが、私は他人を信用していません。自分以外の他人を信じることで、何も良いことは無いとすら考えています。寂しいことではありますが、こうして今まで生きてきてしまったので仕方がありません。

それは、友人関係についても多少そのような側面はあると思っています。どんなに仲の良い友人、親友であっても、心の奥底の根っこの部分は信用できない自分が居ます。

「信用する/しない」というのは、もしかしたらここでは瑣末な問題かもしれません。具体例を挙げて考えます。

たとえば何百万円の借金をしたいからその連帯保証人になってくれと、どんなに親しい友人から頼まれても、その要求は飲めません。そうすることで、結果的に仮に友人がトンズラしてしまったら私がその肩代わりをしなくてはならず、私の家族の生活にまで影響が出る可能性があるためです。

お金の話は分かりやすいですが、もっとファジーな話だと、たとえば私が何かしらの人物や団体に対して、あるいは何らかのニュースに対して、「自分はこう思う。あの反対意見はとても受け入れ難い」という本音だとか、何か人道的でない言動、批判的な振る舞いをしようとしても、それはどんなに親しい友人たちの居る場ではそれを表明しようとは思いません。なぜなら、仮にその友人のうちの誰かが、私のそのネガティブな行動の一部始終を記録していて、それを公衆の面前、つまり不特定多数の人たちの前に晒さないとも限らないからです。そうなるとどうなるでしょうか。恐らく「炎上」ということに繋がるのではないかと思います。

つまり、どんなに些細であろうと、他人と関わると「裏切り」の可能性は必ず生まれると、そう思うわけです。

昨今の様々な(くだらない)ニュースの中には、恐らく心を許した人だけに自分の愚行を公開して、本人としては特定の人たちだけに向けたものであったりすることもあるかもしれません。

でも、仮に本人にその気が無かったとしても、現代では、一旦全世界に公開されてしまうと、自分の言動が一人歩きして、勝手に勝手な評価がされるということがごく当たり前にあります。

そういった意味で、私もそうですが、こうしてネット上に自身の文章(それは思考や生活を含めたものであるからこそ)を公開する以上、やはりそのリスクを負っていると言えると考えます。

他人を信じる。それは大いに結構なことですが、他方で「裏切る可能性」は心のどこかに持つようにしておかないと、いつか悲劇を見ることになりはしないか。そんなことを私は考えてしまうのです。

私自身、上で書いたように他人は信じられません。親しい友人でも、根本の部分では信じきれないところがあります。寂しいことです。

ですが、だからこそ、そのような「線引き」をした上で付き合うことは、何とも爽快な部分があるのも事実です。割り切った関係と言うとおかしな表現ですが、友人とは本来何を共有するような関係なのか。それは友人関係だけでなく、ビジネスの場においても同様です。取引先は、上司部下は、顧客は、自分との距離感や関係性、目的をよく考えた上で付き合うことで無駄な労力は削減できる可能性もあります。

そういった命題のもとに人間関係を構築することは、必ずしも薄っぺらい関係でないと個人的には思うのです。これは、人によって、大いに異論はあるでしょうが。

また、そうは言っても、人間としての営みと言いますか、俗的な言い方をすれば「愛」といったような感情を共有したいという場面もあろうかと思います。

そこは、やはり「家族」だと個人的に考えます。

私は散々「他人は信用できない」と書いてきましたが、「家族」は別です。上にも書きましたが、私は、子供達の前でふざけて、妻の前で程度の低い愚痴を吐きます。そこにあるのは「裏切らないから」という根拠のない安心感ではありません。「たとえ裏切られてもいい」という覚悟に近いもののような気がします。

もし私の子供たちが、不特定多数の前に私の愚行を曝け出したとしても、それはもう仕方がない。私の教育の行き届かなさがそうさせたものと諦めます。もし妻が、私の思想だとか罵詈雑言をメディアに晒すとしても、それは受け入れます。受け入れるしかありません。

私にとって家族は、もはや「公」ではなく「私」の領域に属するものと認識しているためです。

私が他人を信じないのは、裏切られたくないからと書きましたが、なぜ裏切られたくないのかといえば、それは「私」の領域を侵害してほしくないからです。つまり、その先にあるのは私という自分自身以外に、家族が居るためです。家族のために、失ってはいけない利益があると考えているのです。言ってしまえば、そこにある構造は、家族のために自分を「私」を守るような、そんな構図になっているわけです。

そんなわけで、構造的な話を想像してしまうのです。

かなり長くなってしまいましたが、私が言いたいのは、こういうニュースだとか出来事そのものは正直どうでもよくて、何かと世知辛い世の中になってしまった。そんなことを思います。「気を付ける」って言うのは簡単ですけど、そもそもの人と人との関係とか社会の仕組みを十分に考え直すのも重要な気もします。

また、そういう世の中になってしまったのは、結局、みんな優しさが招いたようなものではないかな、とも思うわけです。

優しいから、自分を見せちゃう。他人と距離感を詰めすぎて「俺たちは大丈夫」「ここだけの話」と思っちゃう。でも、その見せた相手が、悪意のある人間かどうか本当は分からない。面白がって軽々と全世界に公開してしまわないほどの賢さを持つ人かどうかも分からない。

そして、優しいから、善人の自分が出てきちゃう。お節介な自分が出てきちゃう。何か目につくようなことがあれば探して見つけて白日の下に晒しちゃう。こんなことをしている人が居るぞ、と。それは良くないことだ、と。みんなに教えてあげよう、と。

一人一人がやっていることはシンプルに見えますけど、単純がゆえに、爆発的に集団的なパワーを持ってエスカレートしてしまう可能性があるんですよね。おまけに今は、言いやすい社会でもあります。発信しやすい。発信者の姿は隠すことができますし、表現の場もありとあらゆるものが用意されていますから。

多分ですけど、実は悪意100%でやってる人はあまり多くないような気がします。「自分は正しいんだ」という思いが、全く関係のないその他大勢の人たちと連鎖的に反応して、世論といったような超巨大な虚像に近いものが出来上がってくるように思います。であるなら、「正しいのだ」という思いがあるからこそ逆に厄介なようにも見えますね。

ところで、人を信じられる人って、すごいなぁと私は思ってしまうわけです。家族しか、他人のことは信じられない自分からすると、それはある種の尊ぶべき志向だなと。別に皮肉っているわけでは全然なく。

そういう人たちは、きっと他人に裏切られてしまうこともあるけど、逆に他人に救われる機会も少なからずあるように思うんですよね。捨てる神あれば拾う神あり、ってわけではないですけど。心許して他人と触れ合える人は、きっと助けてくれる人も居るような気がします。(※別に、迷惑行為やそれをする人を肯定しているわけではないので、あしからず。)

そう考えると、やっぱり私は優しくないので、ほとんど裏切られもしないですけど、救われることもあまり無いわけです。そうしたいかというと別に私は今のままで満足しているのでそれを望みませんが、単純に、自分に出来ないことだと実感するものです。

結論らしい結論は、正直私の中に固まってはいないですけど、人と人とが絡む話はまあ色々ありますわな、といったところでしょうか。なかなかの尻切れトンボの駄文でしたね。失礼しました。

ああ、やっぱり時事ネタに関する文章なんて書くもんじゃないですね。ニュースの紹介とかそれに対する独自の見解とかならいいですけど、ワイドショー的にニュースに対してアレコレ言うのはどうにも個人的に性に合わない感じです。

どこまで行っても想像の域を出ませんし、手垢のまみれた「よくある」話になっちゃいます。誰が書いてもおんなじような話になる。それらは生きている心地の無い、血の通っていない言葉たちです。何より、個人的には、述べた後の爽快感とか達成感は全くもって皆無ですから。

「公」のことなんて書くもんじゃないです。と言うか私には書けないです。もちろん、そういうのを上手く書ける人もたくさんいらっしゃるでしょうが。私には、やっぱり無理です。そんな視点も技量も熱量も無い。

私は「私」の日常だけ垂れ流しているほうがまだマシです。おわり。

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