致命的な「誤り」を防ぐために・・の話。
今日の一文。
今読んでいる本で、このような一節がありました。
本の中では、ある文章が単独で読まれた場合と、他の文章との文脈の中で読まれた場合とで、全く異なる解釈がされ得るということが説明されていました。
たとえば、
太郎くんが試験で学年3位の成績を取った
だけですと、「おお、すごい、頭良いのかな」という感想を持ってしまいがちですが、これが、
交通機関が麻痺していて、試験を受けたのは3人だけだった
という状況が加わると、「ああ、そうなんだ…(頭良いわけでもないのかも)」と思ってしまったり。
まあその例題だけですと、文脈の中で意味が変わる、と聞いても「そりゃそうでしょ」と感じるだけのもしれません。
しかし、この本の中では、一つ一つの文章が論理的に誤りが無くても、全体としては誤った意味が生じる可能性があるということが説明されているんです。
これがとても面白く感じます。
どういうことかと言うと、これを人間に当てはめてみると、一人一人が自分の信念を持って「自分は正しいのだ」と思って行動をしていたとしても、集団になって、組織になって、その全体として動作した時には、なぜか、おかしなことをしてしまう。
本の中では、国民は戦争を望んでいなくとも、国としては戦争に巻き込まれかねない、といった例が挙げられていました。
たとえばそれは、国だけでなく、学校だったり、職場だったり、ご近所だったり、そういう極々小さい集まりの中でも起き得ると思うんですよね。
一人だけだと合っている。正義を持っている。けれど、複数人集まって相互に作用していくと、なぜか自分の持っている正義が曲げられてしまうと。
経済学で言うところの「合成の誤謬」にも通ずるような、そんな話でした。
冒頭の一文を読んでいてまず思い浮かんだのは、プログラム、でした。
私は、曲がりなりにもITエンジニアの職に就いていまして、自分でプログラムを書く機会もあります。
プログラムと言うと、一行ごとにコンピュータにやってもらう命令文を書くわけで、それが何十、何百、何千行と積み重なって、システム全体が稼働することになります。
今時(と言っても最先端の技術についていけていないので、すでに一昔前の話ではありますが…)の開発スタイルとしては、そのプログラムも、自分で書いた文法が誤っていたりすれば、その場で「エラーですよ」と教えてくれるような仕組みがあります。
なので、一つ一つに誤りは無く、システム全体としては一見「エラーは無い状態」にはなるのです。
しかし、実際に動かしてみると、もう山ほどエラーは出るのです。エラーと言うと少し分かりにくいですし曖昧なので、ここは「不具合」と呼びます。
これは、一旦「使う人が意図した通りに動かない状態」と定義しておきます。
不思議なもので、プログラムの命令一つ一つに誤りはないはずなのに、なぜか、使う人にとって「これは違う」という状態になってしまうのです。
まさに、上に書いた「1つの文は単独ではみな間違っていなくても、それらが有機的に作用しあって、予期せぬ新しい妙な意味が生じたり、不適切な含意が読み取られたりする」と同じわけです。
では、それはなぜ起きるのか。
もしかしたら答えは一つではないかもしれません。私が経験上、考えつくものとしては、「個々と全体の視点が違う」ことにあるのかな、と思います。
プログラムの例で言えば、「不具合」つまり「想定した通りに動いてくれない」というのは、まず前提として「これが正しい動きなのだ」という共通認識が無ければなりません。
その共通認識が、一人一人で考えているものとズレている場合、ひとたび「誤り」ということになるのではないか、と思うわけです。
言わば、「個々人」と「全体のひとまとめ」は、同じ個体ではない、と。
またプログラムの話で恐縮ですが、プログラムを書いてシステムをリリースする前に、大抵「テスト」という工程があります。その「テスト」というものには、色んな種類に分かれているのですが、大きく分けて、「単体的な観点で行うテスト」と「全体的な観点で行うテスト」があります。
つまり、観点そのものが違うのです。
一人一人は合っているはずなのに、何人か集まったら、なぜか思ってもみない方向に進んでしまう。
プログラム以外にも、職場で所属するチームだったり、仲良しで集まっている友達グループだったり、国民の総意のはずの政治だったり、もしかしたら、集団全体の方向性が狂って、致命的な「誤り」が起きているのかもしれません。
もしかしたら、全体的な観点が抜け落ちている可能性があったりするのでは…なんて思うわけです。
当然、上にも書いた通り、答えは一つではないでしょう。あくまでこれは私の一意見。
もっと言えば、全てのケースで共通して適用できる「万能薬」的な策は無いのかもしれません。ある時は、強引に誰かが推し進めていくべきかもしれませんし、ある時は話し合って方向性を決めていくべきかもしれません。
いずれにせよ、それを解釈する人の数だけ、その人の中に「論理」があり、そしてそれは「正義」とも呼ぶべき、温かくも冷たい、何とも厄介で生々しいルール(規約)があるのだろう。その中で複雑に絡み合いながら、我々は他人と共生している。
と思うわけです。
そこで、全体として、致命的な「誤り」を防ぐために、一体自分は何が出来るでしょう。
他人のことなど気にしないで生きられるならそれはそれで構わないでしょうが、大多数の人はそうは出来ません。その「誤り」と呼ぶべきものは、一見自分としては関係ないものに思えても、自分のものとして捉えて対処していかなければ、いつか自分にも災難として降りかかる可能性もあります。
最後の最後で一気に抽象度を上げてしまいましたが、「個」と「全体」を考えると、そんなことをどうしても考えてしまうわけです。
ああ、だめだ限界。眠くて頭働いてないかもです。ごめんなさい。もう寝ます。おやすみなさい。おわり。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?