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表現と、大人の事情の話。

あまり時事ネタは取り扱わないようにしてきました。
でもちょっと気になるので書こうと思います。

某バンドの MV が公開停止になった話について。理由は、何やらその内容が差別的な表現だったとのことで。

私も公開停止前にちょっと閲覧したのですが、たしかにそういう解釈もできてしまうなと思いました。

ただ、今回ここで言いたいのは、その MV の中身についての是非とかそういうことではなくて。

これを作成した部隊の人たちの気持ちを想像するというか、もし自分がその現場の中のどこかの部隊の一員として当事者であったのなら辛い気持ちになっていただろうなと想像してしまうのです。

何が辛いかというと、まず、

・自分が心血注いで作成したものが、世に出る前に、つまり評価される前のところで取りやめになるということ

そして、

・もし、制作過程で少なくとも自分はその作品の方向性に対して違和感や世論とのズレに気付いていたのに結局最後まで作り上げてしまったこと

その2つがあったとしたら辛いなと思いました。

私などクリエイティビティの世界に居るわけではないですが、一応 IT エンジニアの端くれなので自分の成果物と言いますか、そういうのに対する思いみたいなものには多少の共感は持てます。

たとえば、プロダクトを作る大変さだとか、それを作り上げた時の達成感、それから、それらが世に出て評価してもらえた時の喜びや、あるいはあまり評価されなかった時の悔しさ等。

自分の話をしますと、この MV のような大きな仕事と比較にもならないですけど、私も以前、自身が主担当で数ヶ月かけて開発をしたアプリケーションがありました。

試験運用を終えていよいよというところで、それが急転直下で会社の方針がガラリと変わり「本番運用しないことになりました」と決まった時、相当なショックを覚えた経験があります。

それを思い出すと、今回のように、多分めちゃくちゃ一生懸命作った MV が公開取りやめにされて無かったことになるのは、辛いだろうなと。

もちろん、MV の内容として問題があった(という前提に立つ)のであれば公開はすべきではないでしょう。

ここも、人によっては結構意見は分かれる部分かもしれないですけど、不快に思う人が実際に居るのならやはり世に出してはいけないと私は考えてしまいます。そう思う人が本当に居るならですけど。

ただ、そうなると、上に書いたようにもう一つの辛さがあったとしたら、と考えてしまうのです。

実際の MV の制作過程を私は全く知らないですけど、恐らくまず「こういった作品を作ろう」というコンセプトが出来上がってきて、偉い人たちが話し合ったりして全体像を決めた上で、そこに肉付けする形で、衣装だったり小道具だったりメイクだったり、現場では様々な分野のプロがそこに携わっていくものだと思うのです。

その中にはもしかしたら「これ、ちょっと(内容として)ヤバくね?」という感想を持つ人も居たであろうと想像するのです。(居なかったらそれはそれでちと危険な気もする)

ですが、そのような感想を持ったとしても、果たして「やっぱりこの作品を作るのをやめませんか」と誰が言えるでしょうか。

恐らく、よほどの権限をお持ちの方でなければそういった途中ストップはかけられないと思うのです。

もし下っ端の人間がそんなことを言い出そうものなら「いやいやいや、何余計なこと言ってんの。オマエさ、もう要らないから」と簡単に契約を切られてしまうことでしょう。

そうなると、自分の中でモヤモヤを抱えたままその作品作りに携わり、そうしていざ公開になっても案の定炎上してしまい、結局その作品自体は日の目を見ることもなく消えていくわけです。

その心苦しさについても辛いものがあっただろうなと思うのです。共犯者と言いますか、自分としては本当は良くないと思っていたのに結果的にそれに加担してしまった罪悪感のような。

上の例にも出しましたが、私がメインで担当したプロダクトが最終的に運用中止となった背景としては、上の人から「そもそも、こういうの要らないよね」みたいな意見があったと聞いています。

しかし、当時は私は上から「こういうモノが欲しいんだ」という意見を全面的に受け入れてずっとその思いで開発していましたから、その話を聞いたときにドッと疲れてしまいました。「要らないなら、最初から言ってくれよ・・」と。

結局、具体的にはケースは全く異なりますので類似点を見出すのは難しいですけど、それでも「(権限のある)上の人」のコントロール次第でその下で働く人たちの仕事がすべて台無しになるということは、どちらのケースでも言えるような気がするのです。

つまりそれが、大人の事情、です。

大人の事情で、ナシになっちゃう。
せっかくがんばって作っても、無かったことになる。

最終的に、総合的に判断してそういう決定は仕方ないと思う一方で、この大人の事情、どうにか避けられないものですかねとも思ってしまいます。てか、そうなるなら早く言ってほしいよなぁ、と。

そのためには恐らく、その「大人」である、権限を持った偉い人が、良識があって、広い視野を持っていて、下の人たちを大切にして、決断できる勇気もあって、それで何より、きちんと想像力のある人であることが必要な気がするのです。

作り手の論理とか表現活動云々とかそういうのは分かるんですけど、チームで動いて仕事をする以上は誰か偉い人がリーダーとして指揮をとっていく必要があるわけで。

私の開発が徒労に終わったアプリも、もしかしたら今回の MV も、誰か偉い人が途中で「ごめんごめん、ちょっと一回ストップして考えなおそ!」と言ってくれたなら、下っ端はここまで辛い思いをせずに済んだのかもな・・なんてことを思ったりしてしまいます。それは早い段階であればあるほど、傷は浅くて済むと思います。

もっとも、ここで偉い人って言っているのは誰か一人がその責任を負えばいいと考えているわけではなくて、こういうモノづくりの過程で色んな関係者が居るはずですけど、それぞれの視点で判断が必要になると思うんですよね。

それは企画担当かもしれないし、各制作チームのリーダーかもしれないし、統括マネージャーかもしれないし、お金を出してくれるスポンサーかもしれない。とにかく権限のある偉い人が決めたことを信じて下はついて行かざるを得ないわけです。食べて行かないといけないですから。

そういう事実が、何か問題が起こったらすぐに無かったことにされて、後々「大人の事情」って言葉で片付けられちゃうのは、実に辛くそして寂しいことだなと感じてしまうのです。

まぁ全部想像なんですけど。

余談ですが、「大人の事情」というと私の中ではやはりこの曲です。

https://www.youtube.com/watch?v=q8-o9EuPQVo


大人の事情って、何なんでしょうね。
もっとシンプルに生きたいよなあ。

何だろ、みんなが仲良く平和な世の中になればいいんですけどね。ちょっとだけ相手のことを考えて優しくなろう。よし、ヤバT聴いて元気出していきましょう。最終的に何が言いたいかよく分からない記事になっちゃいました。ごめんなさい。でも、某バンドを否定も擁護もする意図は無いです本当に。だから叩かないで。おわり。

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