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クトゥルフ的なものへの愛憎

ビチクソ感想文:ミシェル・ウェルベック『H・P・ラブクラフト 世界と人生に抗って』(国書刊行会)

読んでよかった。しかし読み終わるのに2年かかった。前半がだるく、なぜなのか考えたら、そもそもラブクラフトを読んだことがないからだと分かったので、クトゥルフ神話の小説群をいくつか読んでいたら、こんなに時間がかかってしまった。

というわけで、最近本書の読書を再開したのだが、後半はラブクラフトの伝記になっていて、まさにウェルベックの小説みたいにスイスイ読めた。それだけでなく、ラブクラフトの感性や価値観についての社会学的考察が冴えていて、「これぞウェルベック節」という感じで大満足だった。とくにラブクラフトの人種主義的な感性とアメリカの1920年代の社会状況との対照は、いろいろ考えさせられた。彼が抱いた無念と矜持が痛いほど想像できてしまった。

今だったら完全アウトな発言を彼は書簡のなかで吐露しているが、表立って差別に加担するような人間ではなかったらしい。紳士だった。こうした複雑な人間の在り方はもう不可能なのかもしれないと思ってしまった。後ろ暗い欲望も、偏狭な価値観も、胸に秘めた時代錯誤な美学も、全てが表沙汰になって裁かれてしまう。歴史的な人物たちにとって、それは宿命なのかもしれないが、現代ではインターネット、とくにSNSが普及したせいか、多くの人々がいろんなことを自発的かつリアルタイムに表沙汰にしてしまっている(私も含めて)。

本書に限らず、本を読んでいてラブクラフトのような人間像に触れるとき、私たちは何か人間としての可能性を一つ失ったのかもしれないと考え込んでしまう。知らない間にいつのまにか人間が変容している。私たちは変容する前の人間を理解できない。それこそラブクラフトが描いた恐怖ではなかったか。SNSを操って日々せわしなく一喜一憂し、分断を煽って炎上を繰り返す私たちは、彼の目から見たら醜い怪物に映っている可能性が高い。

ファクトフルネスに考えれば世界は確かによくなっているのだろうが、私たちはそれぞれ個別の人生を生きていて、個別の、この目の前の人生が味気ないものになれば、世界も色あせていく。だから、世界も人生も知ったこっちゃない。放っておけばいい。――

本書で書かれたラブクラフトの人生を思うと、いつの時代にも通用しそうな、そんな覚悟と勇気が湧いてこなくもない。どんな時代に生きようが、私たちは私たちの感性で世界と人生に立ち向かうしかない。



ちなみに、いくつか読んだクトゥルフ神話の小説群で一番よかったのは『狂気の山脈』だった。それ以外はよく分からなかった。クトゥルフ神話はあまりにもぶっ飛んでいる。おそらくアメリカは歴史が浅いから、人類を置き去りにするような空想が生まれやすかったのかもしれない。世界も歴史も人生も否定するコズミック・ホラー。そこが魅力だが、それこそが苦手なんだと思った。

そういえば、ハリウッド版ゴジラ(キングオブモンスターズ)もクトゥルフ神話的な想像力でまとめられてしまっていて、そこが興味深かった。というか不満だった。モスラがなんで雲南省から出てくる必要があるのか。人類を超越した古代巨大生物だから出現場所はどこでもいいみたいだった。モスラの共同原作者である堀田善衛を敬愛し、『モスラの精神史』(小野 俊太郎)を愛読する者として納得できなかった。モスラは日本人の南洋幻想を象徴する怪獣なんだからパプアニューギニアとかそういう場所から飛んでこないとダメなのだ。私たち日本人の隠された憧れや願いはどこにいったのか。ハリウッド映画にモスラを出してくれただけでもありがたいが、せめて中国ではなく東南アジアから出現してほしかった。何度も書くが、そういう人間の歴史をぶっ飛ばすところが、クトゥルフ的な想像力を苦手に思う理由の本質だと思っている。言いがかりに過ぎないだろうか。

こうして世界はクトゥルフ的な恐怖によって上書きされていく。歴史から生まれた情念は脱色されていく。ラブクラフトが抱えていた20世紀アメリカの人種主義的な不安によって、ひと括りにされてしまう。別にそれでいいのかもしれないとも思う。世界中で難民や移民が増え続けている。誰もが人種主義的な不安を抱えてしまうのが、現代のグローバル社会なのかもしれない。本書を読んで、気が付いたことだ。だけど、映画とかSNSとか、いろいろぶっ飛ばしたいのは、こっちの方だよ。

そんな気分になってきたので、いよいよラブクラフトの小説が私にとって好ましくなるのかもしれない。


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