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焼き鳥とサンバ

駅前の雑居ビルの小路に「銀座」という看板。もちろん銀座じゃない。こういう銀座が日本にはたくさんある。多くの店はシャッターが閉まっているけれど、軒先に屋台を出して、ビールやらハイボールを売っている。あめ細工や綿菓子も売っていて、神社の祭りのようでもあるが、宗教的な背景はない。銀座だから。

Mと連れ立って歩き、熱帯夜の賑わいに酔った。わが地元には数百年の歴史を誇る祭りがあるけれど、こうした商店街の小さなイベントを見ていると、こちらのほうが身の丈にあって親しみやすさを感じる。じぶんの寿命を超えていく伝統文化の時間感覚もすばらしいけど、実際にその境地に至るには地元と強い縁がないとむずかしい。せいぜい数十年しか住んでいない私にはとうてい無理だ。200年住んでいても祭りのコアメンバーにはなれない。奥座敷に集まった数百年の歴史を誇る一族たちの会合を想像すると、まるで魔法の世界のように感じる。実際ちょっと魔法なんだろう。

そんなことを話しながら、落ち着くね、これはなかなかいいね、と上から目線になってしまうのがおかしかった。おかしいね、と言い合いながら目的地の焼き鳥屋に到着した。

招待してくれた友人M(こちらもM)があとから店に合流した。木の匂いのする店内で、落ち着いた常連さんたちが日本酒と焼き鳥に舌鼓を打っている。われわれも、おすすめ7本コースを頼んで、美味に酔いしれた。ぜいたくをする日だ。だって銀座のお祭りなのだから。

よくわからない銘柄のうまい日本酒。よくわからない鳥の部位のなんかうまい味(ひどい表現だ)。大人になって分かったことだけど、美味いものを食べると感情が高ぶりすぎて、その高ぶりを鎮めるために人は知識でそれを抑えようとする。もしくは美味さになけなしの知識を捧げて感謝を表現しようとする。昔は酒や食べものについてうんちくをたれる人が苦手だったが、そうなってしまう気持ちが分かるようになった。言葉を尽くさないと申し訳なくなってしまうくらい美味いのだ。大人は変だ。言い訳なんていらないのに。黙って味わえばいいのに。言葉だけが言葉じゃない。「わぁ」とか「うま…」とかつぶやく、そのときの姿勢、表情、雰囲気、視線、声の静けさ、それらすべてが言葉よりももっと雄弁だ。

もうすぐサンバがはじまると誰かがいった。なにをいってるんだと思った。八時からはじまるという。だけど一向に音楽は聞こえない。窓の外を見ると人だかりが出来ている。本当にサンバが始まるのか。想像できない。だってあんな狭い小路だよ。

すると突然けたたましい音が鳴り響き、サンバがはじまった。カウンターから振り返って窓をじっと見つめて待っていたら、本当にサンバダンサーの行進が横切った。距離が近い。目が合ってしまう。思わず手をふってしまった。観客は若い人が多く、子どももたくさんいた。お年寄りの方もいて、目の前で、ごついカメラを構えたおじいさんが係員に注意されていた。いい感じだ。まるで犯罪都市だ。うしろからマーチング・バンドがやってくる。黄色いT-シャツを着た大量の学生たちがゼロ距離で愛想をふりまく。太鼓をたたきまくる。地元の大学の音楽サークルだそうだ。

今年で2年目のイベントらしい。若さが爆発していた。見ている人たちの表情も高揚していた。窓越しの私たちもテンションが上ってしまった。この祭りがわが地元のような祭りになっていくかはわからない。たぶんならないし、ならなくていいだろう。だが人間には祭りが必要だ。いつでも、どんなときでも。歴史が積み重なるのなんて待ってられない。今すぐにすべてを解放し、楽しむべきだ。いまを生きているのだから。

小道なのであっという間にサンバは終わる。30分くらいだった。あっという間に人が引いていった。まるでまぼろしだった。


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