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パンデミック恩赦を宣言しよう

Katie Martin / The Atlantic; Paolo Veronese; Getty
2022年10月31日

今回は、私(河越道灌)が同意できない論説を取り上げました

要約

・非常に不確実な状況下で、多くの重要な選択が行われた

・ほとんどの間違いは、真面目に働いている人たちによるもの

・最終的に、誰が正しく誰が間違っていたと証明された

・間違った人は「事実と一致しないことをした」という立場に
 追い込まれるかもしれない

・何かを正しく行うには、かなり運の要素があった

・不完全な知識で行わざるを得なかった間違いを許せばよい

・パンデミックは、私たちが解決しなければならない
 多くの問題を引き起こした

・過ちを引きずることは、破滅のループにつながる可能性がある


私たちは、COVIDについて何も知らないときに、 したこと言ったことを互いに許す必要があります


2020年4月、他にすることもなく、私の家族は膨大な数のハイキングに出かけました。全員、私が自作した布製のマスクを用意し、家族で決めたハンドサインで登山道で誰かが近づいてきてマスクをつける必要があるときは、先頭の人が使うことにしていました。

一度、橋の上で他の子供が当時4歳の息子に近づきすぎたとき、息子はその子に向かって "SOCIAL DISTANCING!"と怒鳴ったことがあります。

これらの注意は全く見当違いでした。2020年4月、ハイキングをしている人とすれ違ってコロナウイルスに感染した人はいませんでした。屋外での感染は、驚くほどまれだったのです。古いバンダナで作った布製のマスクも、どうせ何の役にも立たなかったでしょう。しかし、そのことは 私たちは知らなかったのです。

ブラウン大学でCOVIDについて共同指導しているクラスのおかげで、私はこの知識の欠如について考えています。私たちは、パンデミックの最初の1年間を再現し、非常に不確実な状況下で私たちが行わなければならなかった多くの重要な選択について、数回にわたって講義を行いました。

その中には、結果的に良い選択をしたものもありました。私の仕事に近い例を挙げると、米国の学校はあまりにも長く閉鎖されていたというのが、(全世界的ではないにしても)新たなコンセンサスになっています。学校閉鎖によって健康被害は比較的少なくなったのですが、生徒の幸福と教育の進歩に対する代償は大きかったのです。学習損失に関する最新の数値は憂慮すべきものです。 しかし、2020年の春と夏、私たちは情報の片鱗を得ていただけでした。理性的な人々、つまり子どもや教師を大切に思う人々が、再開の議論の両側で支持を表明したのです。

デレク・トンプソン:学校閉鎖は失敗した政策だった


もうひとつ例を挙げましょう。ジョンソン・エンド・ジョンソンのワクチンと、ファイザーやモデナのmRNAワクチンの相対的な効果について、決定的なデータがなかったのです。mRNAワクチンは勝利を収めました。しかし、当時、公衆衛生関係者の多くは中立的な立場か、ジョンソン・エンド・ジョンソンを好む姿勢を示していました。この失策は悪意があったわけではありません。不確実性の結果だったのです。

明らかにミスリードを意図して、無責任な主張をした人がいました。公衆衛生界が多くの時間と資源を費やして、アメリカ人に漂白剤を注射しないように呼びかけなければならなかったのを覚えているでしょうか。あれはひどかった。誤報は昔も今も大きな問題です。しかし、ほとんどの間違いは、社会のために真面目に働いている人たちによって引き起こされたものです。

不確実性の大きさを考えると、あらゆるトピックでほぼすべてのポジションが取られました。そして、どのトピックにおいても、最終的には誰かが正しいと証明され、誰かが間違っていると証明されました。ある場合には、正しい人が間違った理由で正しいことをしました。また、ある時は、入手可能な情報に対して先見的な理解をしていたこともあったのです。

正しいことをした人は、どんな理由であれ、ほくそ笑みたくなるかもしれません。また、間違ったことをした人は保身に走り、そしてどんな理由であれ「事実と一致しないことをした」という立場に追い込まれるかもしれません。このような自画自賛や防衛意識は、多くの社会的エネルギーを消費し、特にインターネット上での文化闘争の原動力となり続けています。こうした議論は白熱し、不愉快で、結局は非生産的なものです。多くの不確実性に直面する中で、何かを正しく行うには、かなりの運の要素があったのです。そして同様に、何かを間違えることは、道徳的な失敗ではありません。パンデミックに関する選択を、ある人々が他の人々よりも多くのポイントを獲得したというスコアカードのように扱うことは、私たちが前進することを妨げているのです。

COVIDについて、あなたは正しかった、そして正しくなかった


私たちは、このような争いを脇に置き、パンデミックの恩赦を宣言しなければなりません。実際の誤報を故意に流した者は除外し、人々が不完全な知識で行わざるを得なかった難しい判断を許せばいいのです。ロサンゼルス郡は2020年の夏、海水浴場を閉鎖しました。事後的には、私の家族がマスクを付けてハイキングに出かけたのと同じような意味を持ちます。しかし、私たちは失敗から学び、そして失敗を許す必要があります。攻撃をも許す必要があるのです。

私は学校を再開すべきだと考え、子供たちは集団として高い危険にさらされていないと主張したため、「教師殺し」「ジェノサイド」と呼ばれました。気持ちのいいものではありませんでしたが、気持ちは高ぶっていました。そして、あの時のことをずっと分析したり、蒸し返したりする必要はないことは確かです。

なぜなら、このパンデミックは、私たちがまだ解決しなければならない多くの問題を引き起こしたからです。

生徒のテストの点数は歴史的な低下を見せており、読解力よりも数学で、しかも当初は不利な立場にあった生徒ほどその傾向が強いのです。私たちはデータを収集し、実験し、投資する必要があります。高度な個人指導は、学校年限を延長するよりも費用対効果が高いのでしょうか、低いのでしょうか? なぜ、ある州は他の州より早く回復したのでしょうか? このような疑問に答えることが、子どもたちの回復を助けることにつながるからです。

ここ数年、多くの人が健康管理をおろそかにしてきました。特に、子どもの定期予防接種率(麻疹、百日咳など)は大幅に低下しています。COVIDワクチンに関するメッセージングがこの減少に果たした役割について議論するよりも、私たちはこの率を回復させることに全精力を注ぐ必要があるのです。小児科医と公衆衛生担当者が協力して地域社会に働きかけ、政治家は学校での義務教育を検討する必要があるでしょう。

歴史を忘れた者はそれを繰り返す運命にある、というのが定説です。しかし、歴史の過ちを引きずることは、同じように繰り返される破滅のループにつながる可能性があります。私たちは深い不確実性に直面しながらも複雑な選択をしたことを認め、そして協力し合って立ち直り、前進するよう努めようではありませんか。(了)

Emily Osterはブラウン大学の経済学者である。
著書に『The Family Firm: A Data-Driven Guide to Better Decision Making in the Early School Years』『Expecting Better: Why the Conventional Pregnancy Wisdom Is Wrong and What You Really Need to Know』などがある

The Atlantic

考察

エミリー・オスター氏の、「不完全な知識の下で間違いを犯した人々を許し、過ちを引きずることなく協力して立ち直ろう」という主張は、大筋では同意できる建設的な意見だと思います。

しかし、オスター氏の論説には、我々国民がそのような境地に至るための不可欠な作業が(意図的かどうかは別にして)欠落しています。

その作業とは、
①パンデミック発生の原因究明
②政府、医学界、マスコミが行った、対立する意見への全面否定と
 言論封殺の理由説明
③治療薬を試みることをせず、ワクチン万能説に至った経緯
④mRNAワクチンの効果や副作用の正確な情報開示
⑤学力と予防接種率の低下以外にも発生した、重要な問題の整理
などです。

※ここでは、mRNAワクチンの効果や安全性についての、
 オスター氏との見解の違いはあえて触れないでおきます

多くの人が納得できるかどうかは別にして、まず先に、政府・医学界・マスコミなどが犯した判断ミスについての謝罪と、これらの問題についての嘘のない情報開示や、具体的な善後策の提案があった上での「恩赦」なのではないでしょうか。

そうでなければ、個々の人々が「許し」を容認する基準すら作ることができません。さらに言えば、その発言や行為によって不利益を与えた人からの謝罪が行われた後でないと、「恩赦」に値するかどうかの審議すら始められないと考えます。

全世界的に実施された、パンデミック政策による損失とmRNAワクチン接種による薬害は、もはや規模が大きすぎて金銭的な補償ですら十分にはできないでしょう。ましてや、失った命や消えることのない心身の傷は、犯罪者を裁いたり、お金を支払うことでは解決できない問題です。

納得できる解決策を見つけることが不可能ならば、どこかで妥協せざるおえないわけで、そのための「許し」が必要とされるのは間違ってはいないでしょう。しかし、日本人がお得意の同調圧力によって「諦め」を強要することになってしまっては本末転倒です。

今回のパンデミック騒動で受けた国民の被害は、世論が積極的な反対をしないことで、政府・軍部・新聞が戦争に突き進んだことによる(大東亜戦争での)被害と似ているのではと考えます。

8月15日の玉音放送を聞いた先人たちは、その後に「何を感じ」「何を決意した」のでしょうか。敗戦による混乱を誰かの責任にすることで、免罪符を得ようとしたのでしょうか。それとも、自分を含めた国民の不甲斐なさを認め、再建を誓って一歩を踏み出そうと決意したのでしょうか。可能ならば聞いてみたいと思います。

人々が不満を抱えながらも、「許し」「立ち直ろう」という気持ちになるには、きっと長い時間が必要なのでしょう。もしかすると、現在感じている憤りは、経済の大混乱が起きる中で忘れ去られてゆくのかもしれません。

しかし、時間がこの問題を風化させることを頼りにして終結を待つのでは、戦争に加担していた敗戦利得者が、戦後の政治・経済・言論・学問を牛耳ったような歴史を繰り返す危険性が生じます。

自らの行動を振り返ることで自発的に「許し」の境地に達することは、日本人の国民性を考えると今後の自然な流れになるのかもしれません。ですが、それを誘導(強要)することは、私にはできません。

「けじめ」があってこその「許し」なのだと考えます。