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フリカツday49 結局は自分しかない

おはようございます。
今日は11月24日(木)の
フリカツを振り返って感じたことを
書き残していきたいと想います。


その日は、2人の仲間とわたしが
アウトプットしました。

一人目の仲間は、
ある子どもを対象にしたWSで
初めてリード役やってみて
感じたことや学んだことを話してくれました。

WSの共通意識として
できる、できないのジャッジをしないことや、
参加しても、しなくてもいいこと、
一人ひとりの意思を尊重することを
挙げていたそうです。

だけど、WSの動画を見て、
自分自身を振り返っていったときに、

「できたね」「できるかな」
自分自身がジャッジする言葉かけを
していることに気づいたそうです。

リード役として〝自分がスムーズに進めないと!〟
という思いがあったことにも気づいて、
自分の発した言葉をジャッジしそうになったけれど、
リード役として、そんな意識も持っていてもいいと
自分でも思いなおすことができたと
話してくれました。

そこからの気づきが、
できた!の小さな積み重ねが自信につながる
・初めは参加できない子も、それぞれの参加の
 仕方やタイミング
がある。
チャレンジするには土台と準備が必要

とのことで、
そんなことをさらさら~っと話す仲間が
本当にかっこよくて、尊敬の一言でした。

きっと、わたしだったら、
自分をジャッジしていたかもしれない。

自分をジャッジせずに、
ただ淡々と、落ち着いて観察する。
継続点と改善点を整理する。
それができる彼女だからこそ、
子どもたちがそれぞれのタイミングで
最終的には参加して満足感の元、
終わることができたのではないかな

感じました。

やっぱり、見守る側、支援する側の
土台が大事
だと感じるんです。
どんな思いで見守られているのかは
子どもには伝わる。伝染する。

確かに、
「できた」「できるかな?」は
一見ジャッジするような言葉かけに見えるけれど、
彼女自身に、言葉をかけた子どもを
ジャッジしようという心理はなかったと思うんです。

〝取り組んでいる過程を認めたい〟
〝その姿をたたえたい〟

など、一人ひとりのその一瞬を
大切にしたいという思いからの言葉
だったと思うんです。

言葉の裏にある背景が
そんな思いだったら、
同じ言葉だったとしても、
伝わり方は違ってくるのではないかな

感じています。

特に子どもは素直だから。
全身で感じてくれるから。

その言葉に宿る意味を
ひねくれることなく、
受け取ってくれるとわたしは思っています。

もちろん、
使う言葉には最善の注意は図るけど、
それと同じくらい、その言葉を使った背景も
大切にしたいな
ということを
彼女のアウトプットを聴いて
感じることができました。


そして、もう一人の仲間のアウトプット。
彼女は、子育てのことについて
アウトプットしてくれました。

彼女は、息子さんも娘さんもいる
お母さんなのですが、
「お手伝いして~」
「ご飯食べるよ~」
と声かけても何も動かずに、
ご飯も遅れて食べ始める
マイペースな娘さんにイライラしてしまう…

だけど、フリカツをしている中で
自分の今までの積み重ねで
 今の娘の状況を作っている
んだな」
「わたしはこんなにやってあげているのに
 と、やってあげた感を出していたんだな」
ということに気づいたと話してくれました。

フリカツをしなかったら気づけなかったこと、
「あー‼イライラする!!」で
終わってしまっていたことに気づけるのが
フリカツの醍醐味だなと改めて感じています。

わたし自身もそうで、
自分のフリカツをすることで一歩引いて
自分を見ることができる。

それをアウトプットすることで、
他者からの視点をもらって、
自分の視点の広がりや深みが増す
さらに、noteに残すことで、
それの広がりや深みが増し続けて、
本当の自分の考えを導き出していくことに
つながっている
ような気がしています。

話がそれてしまいましたが…
本当にフリカツの意味は深い。。。


さて、話を戻していきますが、
仲間の話を聴いて、ピロさん
(「私なんて」を「私だから」と想える人生にする
 全力応援マインドコーチ)

https://instagram.com/piro2piro2?igshid=YmMyMTA2M2Y=

が話してくれたことが、

手放す、任せる親の勇気が必要で、
 それができるかどうか次第だということ。
 親がすべてやってあげるを
 自分のことは自分でやるに変えていく。
 当たり前を変えるには勇気がいる。」

と話してくれました。
本当にその通りだなと感じていて、
これは、子育てだけじゃなくて、
全てのことに通じること
だと想います。

そして、この言葉を受けて、
仲間が話してくれたことが
本当に印象的でした。。。

「〝母としてやらなきゃいけないこと〟
と自分が捉えて自分で手放せずにいる。
自分が自分で握りしめている。
手放す怖さを持っているのかもしれない。

わたし自身もそうです。
本当にこれだー!!とこの話を聴いたとき、
心の中で叫んでいました。

ありがたいことに、
誰も、わたしのことを
縛り付けてなんていないんです。

自分が勝手に〝母としてのわたし〟
という呪縛
をかけているだけ。

その呪縛を取るも取らないも、
自分で決めて行動するしかない。

自分は今どう感じているのか
自分はどうしたいのか、
自分はどうしていきたいのか、
自分はどうなりたいのか。。

じゃあ、今この呪縛は必要なのか。


わたしもたくさん抱えているなと。
娘が自分のような寂しい思いをする
幼少期を過ごさぬようにと
自分で勝手に縛り付けて、
イライラしてしまっている。
本末転倒な場面がたくさん思い浮かびました。

やっぱり、
自分が幸せなのか?
自分がどうしたいのか?

これを明確にしていくからこそ、
削ぎ落していくものが分かり始めるん
だなと
実感していました。


そして、この仲間のアウトプットの中で、
別の仲間が話してくれたことが、

「娘ちゃん、めっちゃいい女になるんやない?」
ということでした。

自分で何もしなくても、
男兄弟やお父さんがしてくれるがベース。
それって、男側も育つし、
それがスタンダードで育つ娘さんの将来も
楽しみじゃない?という視点に、
驚きと喜びのような表情の仲間。
自分にない視点をもらえることが、
 本当にありがたいと感じるフリカツのシェアタイム


重ねて、ピロさんも
我が子が鏡なのかもしれないんじゃない?」
と話してくれました。

自分が自由に生きていきたい!
そんな姿を子どもがまず見せてくれている。

確かにそうなのかもしれない。

わたし自身もそう感じることが多々あります。

「お姉ちゃんだから泣かないの!」と
言われて育ってきたわたしは、
泣いてはいけない!というのがベースにありました。
本当は感情豊かで涙もろいのに。

旦那さんからも
「泣かれたら困る」と言われたこともあり、
その時の風景は今でも思い浮かぶほどです。
(旦那には旦那の理由があると想います…笑)

反対に、娘は常に感情爆発!!!
周りも心配するほど大泣きします。
そして、自分のタイミングで、
びっくりするほどケロッと切り替わる。
「あ~すっきりした!」と言わんばかりに(笑)

そんな彼女をみていて、
最初はイライラしたり、もどかしかったり…
複雑な感情を抱いた時もありました。

職業柄、パニックや癇癪には慣れがあっても、
我が子となると感情が入ることがありました。

でも、その背景には
「こんなにストレートに泣けてうらやましい」
という気持ちが隠れていました。

今では、
すがすがしいなと感じるほどです。

自分にも
・泣いていい
・泣かせてもいい
そんな許可を出して、
感情を出し切るのを待てるようになってから、
そんな風に想えるようになってきたのかも
しれません。
(といいつつ、余裕がないときは、
 イラっとすることもあります笑)

やっぱり、自分で自分に許可を出すことが
目の前の困り事の解消の第一歩なのかも
しれないなということを感じました。


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最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。    EMI

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