#ふらここ深耕 第1回~第50回まとめ

姫子松・萩原・渡邉運営時代の#ふらここ深耕

姫子松一樹

コーヒーの残り香マスク内に満つ/沼尾将之
(俳壇4月号、新若手トップランナーコーナー)
この句のポイントはコーヒーだと思います。マスクをしていると口臭がなんてことがよくありますが、コーヒーでないとこの温かみが出ない、のど飴の残り香ではだめ、そんな一句なんだと思います。内が若干の甘さを残していますが、それもまた余白としていい。

なめくじり神様になりそこねしか/山田すずめ
(『青垣』第51号 2019年10月)
人間は神様が自分を真似て作ったものらしいが、なめくじはどう生まれたのか。よく見てみると粘液を纏いながらも肌目がザラザラと割れており、ヒトの皮膚のような見た目をしている。色味も人に近い。あの異形はなにものにもなれなかった、なりそこねた成れの果てなのだと考えさせてくれるような一句。

くれなゐの椀落ちてゐる秋の川/安里琉太
『式日』(2020年2月)
紅の椀ときくと漆塗りの立派な物を思い浮かべる。これが浮かんでいれば一寸法師だが、落ちているのだから捨てられたものだろう。栄枯盛衰のような悲しさは秋の川に似合っている。本句集の中でも比較的わかりやすい句だ。

頭なき蝉の埋葬蝉鳴けり/大木孝子
『GANYMEDE vol.62 Dec.1,2014より五十句詠 白殺し』
蝉って実は1ヶ月ぐらい生きるそうですが、それでもやっぱり儚いもの代表みたいな面がある。ただでさえなのに外敵に襲われたのか可哀想な蝉。それでも、確かに生命の系譜は脈々と続いている。

春一番同じ惣菜つづきけり/松本旭
『天鼓』(昭和五十六年)
春一番は春を告げる良い風なような気もしますが、実際は生ぬるくてやや不気味な風。陰鬱になりそうな天気の時に吹くことも多々あります。そんな日の続けて出てくる同じメニューには気落ちしてしまうのでしょう。

サイダーに星の爆発ありにけり/大島雄作
『一滴』(2019年)
炭酸のひとつひとつの泡のことの比喩だとしたら面白くない。私はこれを見てあんびるやすこのルルとララのキラキラゼリーを思い出した。小学生のころに読んだ絵本。サイダーのゼリーの真ん中に大きい星があり綺麗なもの。別にこれでなくても良いのだが、サイダーの上にお菓子の星が乗っているものはあるだろう。それが炭酸に押されふつふつとしている景は楽しい。

ふらここの続きのやうに帰りけり/竹中佑斗
平易な言葉で語られているのにしっかりとした重力のある句。ぶらんこに乗った時のふわふわした感じは他のものでは表せないものであり、春らしい柔らかな仕立てとなっている。けりの余韻もふわっとした詠嘆として効いている。

岡山へ行きたし桃を五つ食べ/西村麒麟
『鴨』(2017)
桃太郎伝説のイメージが強い岡山県。ネットにあたると山梨・長野・和歌山の3県で7割の生産量を占めているため、イメージとは違い岡山県での桃の生産量はそれほど多くない。しかし、岡山へ行った気分になるには桃を五つも食べねばならないのだろう。桃で岡山は近いのでは?という意見もあるだろうが、こういった背景を見るとあまり近すぎるというわけでもなさそうだ。

蚯蚓鳴いてフグタマスオといふ哀愁/照屋眞理子
『猫も天使も』(2020)
毎週サザエさんがやってくるとああ日曜日も終わりかとなる、そんな国民アニメサザエさんの主人公サザエさんの旦那さん、マスオさん。磯野家に住んでいるが、フグ田という苗字からも婿入りしたわけではない。なのに嫁家族と同居しているという少し変わった家庭。メガネがトレンドマークのマスオさんにはどこか哀愁感があります。このマスオというキャラクターは世の旦那さんの言うなれば蚯蚓にとっての螻蛄のような代弁者なのです。

こほろぎや思はぬ幸の土瓶蒸し/水原秋桜子
『うたげ』(1986)
この思はぬ幸とはいったいなんなのだろうか。まさかこほろぎを思はぬ幸として土瓶蒸しするわけでもないだろうし、おそらくは高価な松茸あたりだろうか。いただきものかなにかで手に入れた松茸の土瓶蒸しでも食べながらこおろぎの風情ある空間にいるのであるとすれば納得はできる。

へそくりの位置を変へたる冬支度/小野あらた
『毫』(2017)  
へそくりというと隠す場所のランキング1位は机などの引き出し、2位はタンス、3位は本棚なんだとか(SUUMO調べ)。冬支度で変えるのだから厳しい冬に備えて厚手の服を出すために触るタンスなんかからバレないように移動させたのだろう。冬支度らしさというよりも本人の冬支度の実感がよく出ている。個人的には家族にバレるわけにはいけないサプライズのためのヘソクリであって欲しいなぁと思う。

冬銀河最後の螺子の締まりけり/柏柳明子
『俳句四季2020年11月号』
冬銀河から始まっているところがこの句の評価が別れるところだろう。私はこれは感覚的なものだからあまり言葉にして論じない方が良いと思う。その後最後の螺子というアバウトな言葉がくる。何の螺子かではなく最後の螺子なのだ。もしかすると最後の螺子と思っていたらその後にいくつか螺子が出てくるかもしれない。ものは完成しているのに。

十二月八日あんパン半分こ/坪内稔典
『ヤツとオレ』(2015)
太平洋戦争が終わったのはいつですか?と聞くと大抵の人は8月15日と答えられるだろう。(そこ!降伏文書調印は9月に云々とか言わない!)しかしながら12月8日が何の日か分からない人は少ない。そう、太平洋戦争が始まった日だ。あんパンは日本で木村安兵衛氏によって開発されたパンであり、海外にはない。いわゆる有名な木村屋のあんパンがそれにあたる。外国のパン。日本のあんこ。なんのために日本は戦争を始めなければならなかったのか。そんな含みを感じる句だと思う。

フリージア手話心臓を刺しにけり/黒岩徳将
アンソロジー『関西俳句なう』(本阿弥書店、2015)
どうしてもフリージアと聞くと機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズエンディングテーマを思い出す。こちらも題はフリージア。フリージアはかわいい花ではあるが字面からかなんとなく血とか生命の感じがする。手話で心臓を指すという行為は「私」を表すことだったと思うが、私は私でしかないのだ。そんな強い意志を感じる。

萩原海

瀧の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
自分が一番好きな句です。滝から落ちる水の動きを、一切の無駄なく描写しきっています。
落ちる水のことしか言葉では言われていないのに、時間、音、自然といった周囲の風景までもありありと想起させてくれるところが、この句の賞賛される所以なのではないかと思います。昨年、大阪の箕面の滝でこの句の句碑を発見し、飛沫を挙げて落ちる水を眺めながら、さらに好きになることができました。

牛糞を蹴ればほこんと春の土 鈴木牛後
(鈴木牛後第三句集「にれかめる」)
牛糞という強い語を用いているにも関わらず、決して読者には威圧感を感じさせない。牛糞の熱で仄かに周囲より温まっているその土に「ほこん」という擬態語が一層、牧場の春の柔らかな情景を掻き立ててくれる。

食堂は暗くてみづうみの景色 上田信治
(邑書林 上田信治句集 リボン)
薄暗い食堂の前に広々と湖が広がっている景。こちらが暗い分、余計湖の方の明るさが際立って、ある種神秘的な光景が目前に現れた。広がりが好きな句。

湯気たててなんかないのという裸 長嶋有
(長嶋有『春のお辞儀』ふらんす堂)
もはや生活感の暴力。風呂から出てきた人を平易な言葉で描写してここまで面白くなるのかと驚く。「なんか」は着替えの類だろうか。それとも飲み物だろうか。ぼかしたところにまた良さがある。

ミンティアの氷山遠し駅あかるし 佐藤文香
(佐藤文香『君に目があり見開かれ』港の人)
深夜のそれなりに大きい駅だろう。無駄に明るい照明の下、片手のミンティアを眺めながら「これどのぐらい遠くの山なんだろ?」と疲れとともにしょうもないことに思いを馳せる。そんな人間っぽさが好きな句。

雨のあと遠足が来て駅濡らす 鷹羽狩行
(鷹羽狩行『山河』ふらんす堂文庫)
雨が降った直後、屋根のおかげで濡れていないホームを、入ってきた遠足の子供たちの靴が濡らしていく。きっと構内の静寂も塗りつぶして賑やかになっているのだろう。子供の元気さが表れている句。

風鈴の空は荒星ばかりかな 芝不器男
(不器男百句(創風社出版))
荒星は冬の季語だが、これは風鈴が季語の方だと見た。空にうるさいぐらい輝き、瞬く星々を、風鈴の音が包んでいる。荒星という語はなんだか夏の方がしっくりくるのではないかというぐらいのしっかりとした作者の世界観が満点の星空の下静かに響く風鈴の音を読者にありありと感じさせている。

東京の人が芒を呉れにけり 山口昭男
(句集 書信:花神社)
東京といえば都会のイメージ。一見自然とは無縁な感じの人から如何にも田舎然とした芒を貰うのは、ある種の奇妙さとおかしさが混じった感情が起こる。

信濃から人来てあそぶ秋の浜 飯田龍太
(飯田龍太句集「山のこゑ」廣瀬直人編 ふらんす堂)
海なし県の人と秋の閑散とした浜辺で遊んでいる。夏や冬と違った、秋の浜の寂しさが、逆に優しく柔らかく景色を包んでいるのではないか。「あそぶ」が平仮名なのもそれを後押ししている。

押す扉引く扉秋深きかな 岸本尚毅
(第四句集 感謝 ふらんす堂)
押す扉と引く扉。押すと引くで、屋内に流れてくる秋の空気、その微かな流れの違いに気づいたのではないか。それは秋が深まって一層空気が澄み渡っていたからだろうか。動詞が二つある割にそこまで動きを感じない句。

返り花かすかに鉄の橋ふるへ 夏井いつき
(句集 伊月集 龍:朝日出版社)
鉄道の橋だろうか。小春日にふと感じた橋のかすかな震え。返り花を咲かせた原因を、鉄が、震えとして捉えたのかもしれない。「鉄の橋」と引き伸ばしたことで、金属のじんわりとした震えがより強調されていて、小春日の暖かく優しい空気を一層読者に感じさせるのではないか。

行く年の箸浮びゐる洗ひ物 小川春休
(句集 銀の泡)
自分が普段使っている箸が他の洗い物とともに水で満たした容器の上に浮いている。なんということもない日常の景色も、年末というフィルターがかかることで、何かしみじみとした光景に見えてくる。来年も、その次も、長くこの箸を使えるように、日常が続いていくように、願っているのかもしれない。

ベルリンにただの壁ある去年今年 長嶋有
(長嶋有『春のお辞儀』 ふらんす堂)
ベルリンの壁は一部が現存しているものの、それは隔てるものではなく今ではただの壁として静かに存在しているに過ぎない。それは平和な時代になったということなのか、はたまた別の何かなのか。見上げて、人は何を思うのだろう。月日はただひたすらに過ぎていくばかりだ。

月を向くカメラRECの字の冷し/黒岩徳将
『街』(2018年4月号)
望遠鏡越しに撮影でもしているのだろうか。肉眼ではない、感情のないレンズが月を見ている。RECと画面端に表示されたフォントがその無感動さを体現するかのように硬質に留まっている。人間と、機械との差異を哀愁を持って表現している句だと思う。

渡邉一輝

心臓はひかりを知らず雪解川 山口優夢
『新撰21』(平成21年刊)
心臓は光を知らない、というフレーズに感服。確かに心臓は胸の奥で、陽の光を受けることなく脈打ち続ける。そこに雪解川という季語が現れることで、水量を増して流れる雪解川がまるで春の大地を巡る血管のように質量を持ち、その激しい脈動をも読者に感じさせる。とても好きな句です。

夢に浮く身風呂にしずむ身四月尽 江里昭彦
羽が生えたみたいにふわふわと湯気に浮くこころと、風呂の底に沈む身体。
過ぎゆく春を想いながら、お風呂の水を媒介に水の浮力と沈む身体の質量を情緒的に描いた一句。

五月わが部屋を光の箱にして 細谷喨々
『二日』(H19刊)
5月のよく晴れた日に窓を開けて部屋中に光を取り込んでいる。初夏の陽光が部屋を隅々まで満たしている様子を光の箱とする描写が美しい。わが部屋としていることでどこか作者の心からも光が溢れているように感じる。

葉桜の中の無数の空騒ぐ 篠原梵
『皿』(S16刊)
初夏の桜の木を下から見上げると、重なる葉桜に分けられたいくつもの空が見える。風が吹いてざぁと鳴る葉桜を空騒ぐという作者の視点の出し方に自然との一体感を感じる。
梅雨晴に葉桜の下で木漏れ日を浴びながらこの句を読んだ時の気持ちよさたるや。

鰯雲仰臥の子規の無重力 東国原英夫
現時点のプレバトで個人的にトップクラスに好きな句。鰯雲を寝転んで眺めていると吸い込まれていきそうだという心地を無重力として、読者に一気に身体感覚的共感を持たせ、さらに病床の子規の心に想いを馳せるという合わせ技。無重力が巧すぎる。

かほ洗ふ水の凹凸揚羽くる 杉山久子
先月のふらここメール句会においても洗顔の水を掬い上げる描写の句が提出されており、今の時期の蒸し暑さを濯いでくれるような心地がしたのを覚えている。この句の妙は凹凸。両手で掬いあげた水が手のひらで変化するその凹凸にまで注目した観察眼に感服。顔にかけるための水で、目と水との距離が近いからこその表現か。揚羽によってもたらされる外の空気もどこか心地よい。

原爆忌一つ吊輪に数多の手 山崎ひさを
原爆忌と吊り輪の描写との距離感が絶妙。朝の満員の路面電車に乗って人々の生活が動き出す句とも、一日を終え、それぞれの家に帰る人々が吊り輪に掴まる安寧の句とも読める。いずれにせよ吊輪に掴まる手が祈りの形であるように感じる。

桃食べるこころはからだじゅうにある ちま(5さい)
(2019年8月の審査結果発表|俳句生活|通販生活®【公式】カタログハウスの通販サイト)
2019年8月の俳句生活「天」の句。桃を食べて心は身体中にあると感じているその感性に脱帽。桃の産毛に触れる手にも、果汁に濡れる指も舌も、その匂いを感じる鼻も、身体中のあらゆる感覚で桃を味わっていることが伝わる。心とは決して脳幹だけにあるものではないという無垢な瞳にはっとさせられた。

天渺々笑ひたくなりし花野かな 渡邊水巴
あまりにも凄いものを見た時に、身体の底からくつくつと湧いてきて表情筋を緩めていくあの感覚、なんなんですかね。凄すぎて笑うしかないみたいな、それこそ言語化できない「やばっ(笑)」みたいな。そんな壮大な花野の景。

秋の暮大魚の骨を海が引く 西東三鬼
秋の暮の波によって海の深くへと引き込まれていく大魚の死骸。この句の死の深いところへの引力のようなイメージは冬へと続く秋の暮ならではの効果か。寂寥とした風景の中にも海の神秘性や、海に産まれて海にかえる大魚の一生を感じる。

月明りまぶたで曳いて汲みあげる 蟻馬次朗
2020年9月の俳句生活「地」の句。曳く、汲みあげるという言葉選びからか水が連想され、どこか海辺で月の光をじっと見つめているような感覚になった。目を細めたときにまつ毛と視界の間に溢れる月の光が涙でぼやけ、再び開くときにはその光ごと瞳に取り込んだような、そんなまぶたと月光の親和性をも感じる1句。

ことごとく未踏なりけり冬の星 髙柳克弘
正直紹介文よりもう一回この句を読んでほしい一句。
未知の世界に目を輝かせ、知らないおもちゃを前にした子どものようなもう一人の自分を脳内に飼い、夜空を見上げる作者の横顔も見えて来る気がする。地球の上で冬の星々を俯瞰する、気分はボイジャー。

羽もなく鰭もなく春待つてをり 藤井あかり
『封緘』(H27刊)
この句には何か形あるものの描写が一切ない。むしろ、羽もない、ヒレもないと思い浮かべた形をひとつずつ消していっている。その結果残った地上に生きるものとしての自分という存在がふっと浮かび上がってくる。空でも水の中でもなく、地に足をつけて春を待っている自分という存在をしっかり認識している一句。

十月やピアノに食らひつく猫背 黒岩徳将
『角川俳句』(2020.11)
食らひつく猫背という表現に、このピアニストの全てが詰め込まれているように思う。背を丸め鍵盤に顔を埋めるように弾く姿はまさに食らいつくという言葉がしっかりと当てはまる。音楽の優雅さではなく根源の狂気的な部分まで手を伸ばした一句であるように感じた。
ちなみに音楽の狂気的な部分を描いた作品としては映画「セッション」も好きです。

山田祥雲

獅子頭ぬぎて笑ひて総入歯 鷹羽狩行
『六花』(1981年)
丈夫な歯をもって人の腕なり子供の頭なりを噛む獅子頭、それを操る人の歯は総入歯でした。獅子舞と同じくもう朽ちることのない歯の笑顔が清々しく思われます。清々しい新年は良いですね。ぬぎて笑ひてのリズムも総入歯をより楽しく見せます。

横井来季

残雪に血を喀く兄の前世は火 藤原月彦
『藤原月彦全句集』(2019)六花書林
印象が強烈な句。景は明快で、残雪に血を喀いている兄、その前世が火であると、瞬間的に気づいた、という景である。雪に対して血を喀く、というのは昭和時代の文士のイメージがあり、ある意味で典型の気もするが、この句ではその血に火が内在している点、喀血に溶けるのが吹雪の積雪でなく、春の残雪だという点によって、常套とは違う異質さを感じる。吐くではなく、喀くという字が使われているが、吐血の吐は消化管からの出血のことを、喀血の喀は肺・気管支からの出血を言うらしい。前者が暗い、沈んだ赤色となるのに対し、後者は鮮やかな紅色となるようだ。後者の方がより火と近い感覚がする。そうでなくとも、火と血はどちらも命のメタファーとしてよく用いられ、感覚として近い。六道の中で、天道にのみ火のイメージがないのも、苦しみから解放され、快楽に満ちているが故に命の実感が薄いからだろう。また、主体(弟か妹)の姿がこの句では見えない。血を喀く兄の姿を、心配する素振りもなく、俯瞰しているように見える。残雪(zansetu)に血(ti)、前世(zense)は火(hi)といった形で韻を踏んだ、口籠もりのない語り口もどこか冷静である。主体の前世は雪、それも今眼前で喀血に溶かされている、残雪のような雪だったのではないかとも感じられる。

夜行

枯蓮や塔いくつ消え人類史 高柳克弘
高柳克弘『寒林』(2016)ふらんす堂
塔ができるのではなく消えることで人類史を語ろうとするのは、蓮の寒々しい変貌を目の当たりにしたためだろう。この枯蓮から視線を上げたときビルやタワーが目に入るかもしれないが、作者にとってはそれもまた、いずれ消えゆく「塔」に思えてならない。そう思うと枯蓮がますます無常感をもち始めるのだ。

竹之内善史

人恋ひてかなしきときを昼寝かな 高柳重信
『前略十年』(1973年)
 僕はこの句に心を打たれたので俳句を始めました。叶わない恋をしてしまったとき、寂寥感に捉われてしまいます。その心のモヤモヤを寝ることで紛らわせるのは物凄くリアリティがあると思います。また、昼寝にしたことで、起きている間は好きな人のことを考えてしまうことが良く伝わります。

柴田侑秀

山眠るごとくにありぬ黒茶碗/長谷川櫂
『蓬莱』
長次郎の大黒を詠んだ句です。ずっしりとした冬山と茶碗が響き合い、冬の静かな深みに吸い込まれていくような感慨を覚えます。静止画的な景にもかかわらず引き寄せられる力が非常に強く、ちょっと不気味な危機感すら。

中川多聞

簡単な体・簡単服の中/櫂未知子
櫂未知子(平成15年)
 作者自身の幼児体型がモデルになった句であるという。内側にある複雑な心理ではなく、あえてその幼げな体、表面的な部分に着目し、「簡単」と開き直って見せた。そうする事によって、類型的ではない、幼い女性の達観を表現する事に成功している。この句は上質な少女俳句にも解釈できるのだ。

柴田健

ゆっくりと妻が螢に成っている 米岡隆文
米岡隆文『虚(空)無』邑書林、2016
螢には独特の世界がある。この句は妻の行為によりその世界が作り出されていることの写生、即ち詠者の感じた世界の蠢きを表現することで、物質的な写生だけでは成し得なかった螢の世界に読み手をも誘う句になっている。

竹村美乃里

ポストまで歩けば二分走れば春/鎌倉佐弓
鎌倉佐弓『走れば春』(東京四季出版、2001年)
春だ!まだうっすら寒いけれど陽の明るさは紛れもなく春で、走るとわたしのまわりに心地よい風を感じる。初春の風ってなんだか新しい服みたいにぱりっとしていてうれしい。すぐそこのポストだけれど走り出したくなる、そういううれしさも春の中にあるのかもしれない。

雪花菜

地震深く寒満月のまぎれなし/今井豊
句集「訣別」(平成10年)
地震は地下奥深くで起こり、今の科学技術では予測することが困難である。圧倒的な自然の力の前に、日常は突如として非日常へと変わってしまう。日常が非日常となった夜、空にはあかあかと月が自分を照らしている。例え、いまは呆然とこの月を見ているとしても新しい日常を手に入れてまたこの寒満月を見るために前へ進もう。
地震の被害や心象を明確に露出せず、読み手に作者の心象を想像させる句であると思う。

仮屋賢一

春宵の街へ土地勘ある如く/今井聖
句集『九月の明るい坂』(朔出版、2020年9月)
その場所の土地勘なんて一朝一夕に身につくものではないけれども、土地勘がないからといって必ずしも不安になる必要もない。迷ったらそれはそのとき、と、のんびり楽観的に知らない土地を散策するのもまた一興。そして、土地勘がないからこそ、迷っても、迷わなくても、そこには素敵な発見や出合いが待っているのだろうと思う。きっと、春宵という至極の時間を、とても贅沢に使って満喫しているのだろう。

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