この世界の車窓から※短編
※0229追記 以下の記事にあるような体験をもとに書いております。
時代は令和だ。
ネットで稼ぐ時代である。
一方、その裏では様々な職業が消滅し、あるいは滅びようとしている。
ちり紙交換、駄菓子屋…
潰れないことに定評があった街の写真屋さえ危ぶまれているご時世だ。
そしてこの手の話をするとき、忘れてはならない職業がもう一つある。
これはその職業に人生を費やしたある男の物語だ。
*
男の職業は車窓屋。
そう聴いてもピンとこないだろう。
無理もない。車窓屋とは表舞台には決して表れない職業だから。いわば裏稼業だった。
皆さん、子供時代を思い出してください。
あなたは電車に乗っています。
靴を脱いで座席から窓の外の景色を眺めてます。
窓の外で様々な建物が流れるように過ぎ去っていく。
さァそこにひとりの人物が現れる。
その人物は、アクション映画よろしく建物から建物へとジャンプし、風のように猛スピードで駆け抜けながら電車と併走する。
そんな体験はありませんか。
窓の外を走る男(女)に無我夢中になった記憶はありませんか。
もし思い当たる節があるのなら、次の説明を聞けば「そうだったのか」と腑に落ちることだろう。
あの不思議体験にはちゃんとカラクリがある。
答えは一つだ。
実際にその人物が存在しているからだ。
あなたの空想ではない。
つまり、その正体こそ車窓屋と呼ばれる人たちなのだ。
*
樋口の担当は京王線の調布駅から新宿駅までだった。
走行距離にして約15キロ。
車窓屋は電車と併走するわけだから、1日に何十往復としなければならない。
それでいて時給740円。東京都の定める最低賃金を大幅に下回っている。
低賃金には訳があった。
携帯ゲームとスマホのせいだ。
最近の子供たちは電車内で窓の外よりも液晶画面ばかり見ている。
当然、需要がなければ供給は減る。
車窓屋の賃金は下がるばかりだった。
とはいえドアの手すりに立っている大人たちはたくさんいるじゃないか、と思うだろう。
が、あの連中はダメらしい。
車窓屋いわく「心が錆びついてしまっている」とのことだ。
俺たち(車窓屋)は子供にしか見えない。
子供に夢を与える商売だから。
「平日のサンタクロース」とまで呼ばれていた過去の栄光を引きずりつつ、車窓屋は今の時代を生きているのだった。
*
話は戻って樋口のことだ。
彼は調布駅付近にあるパルコの屋上でふてくされていた。
つい先日、彼は車窓屋会社から解雇通知を受け取っていた。
つまりクビだった。
彼は18の時に岐阜から上京して以来、約30年間、この仕事一筋でやってきた。
命の危険に晒されたことも一度や二度でない。
彼は仕事に人生を賭け、誇りを持っていた。
それが紙切れ一枚でサヨナラだ。
そして最終日にも関わらず、仕事にあぶれ、待機要員としてパルコ屋上に寝そべったまま一日が終わろうとしていた。
求人雑誌を読む樋口の隣には同僚の中井がいた。
「樋口さん、長い間お疲れ様でした」
「あ?」
「いや、今日までって聞いたので」
「まだ時間じゃねえだろうが。くそが」
「す、すいません。そうっすよね」
「…」
「樋口さん」
「あ?」
「…いや、桜上水にある黄色い建物、ジャンプし辛くないっすか? なんか床がヌメヌメするんすよ」
「魔のマンションか」
「やっぱりそうなんすね」
樋口は懐かしむようにいう。
「昔からある建物だ。一度俺も滑ってひどい目にあった。その頃は労災が出たからよかったが」
「今は労災出ませんもんね」
「あーあ。YouTuberとやらは楽でいいよなァ。こちとら命懸けだってのに。クソが」
そんな会話をしていると、樋口のスマホから着信音が鳴った。
仕事の合図だ。
樋口はおもむろに立ち上がる。
彼にとってこれが最後の仕事になるだろう。
*
調布駅に特急電車が止まる。
樋口は駅の外から車内を覗き込む。
どの子供が顧客なのかは会社から通知があるが、長年の勘から自分の目で判断することができた。
「あいつか…」
樋口の視線の先に窓の外を見る小学生の少年がいた。
7才か8才といったところか。
が、樋口は乗り気になれなかった。
どうせすぐに飽きて、ゲームかスマホをいじりだすのがオチだ。
樋口は近頃の子供にうんざりしていた。
電車は発車し、合わせて樋口も走り出す。
器用に建物間をジャンプしていく樋口。
その樋口の姿が、少年には見えている。
樋口は年を重ねるにつれ、特急のスピードについていくのがしんどくなっていた。
「頃合いなのかもしれない」
そんなことを考えながら電車と併走した。
一方、車内の少年は瞬き一つせずに疾走する樋口の姿を見つめている。
やがて終点である新宿駅に到着した。
その間、少年は樋口の走りに夢中だった。
樋口は「ま。最後の仕事としてはよかったかな」と自分のラストランに満足すると共に、ゲームやスマホをすることなく窓の外を見続けた少年に好感を抱いた。
樋口は生涯最後の顧客である少年を見送ってやろうと思った。
が、少年が電車から降りる気配はない。
窓に顔を貼り付けて外を見続けている。
何か物足りないとでもいうように。
樋口の胸に忘れかけていた感情が湧き上がってきた。
感情の正体は快感だった。
この快感を得るために、彼は長年この仕事を続けていた。
少年が乗ったまま、電車が発車する。
折り返しで、行き先は高尾山口駅だ。
電車と並んで樋口が疾走する。
その樋口の姿を、少年の大きな瞳が捉えて離さない。
(望むところだ)と樋口は思った。
八王子でも、高尾でも、少年の気の済むまでどこまでもいこう。
樋口は息を切らして走る。
が、表情は満ち足りていた。
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