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映像作品における人称

「save the cat」に代表される、
巷に溢れるシナリオ教本には、
構成や、
キャラクター、
あるいはテーマなど、
さまざまな角度から、
ストーリーのノウハウやテクニックが語られていますが、

人称については、
小説ほど、
その視点から論じられることはありません。

理由としては、
映画やテレビドラマなどでは、
映像表現を主体としているため、
小説とは異なり、
人物の内面を描くのに向かない媒体である点が挙げられます。

モノローグ(心の声)ばかりを使うと、
ストーリーが説明的になってしまうことから、
たとえば、
脚本教室の大手である、
シナリオセンターでは、
モノローグの使用自体を禁止しています。

一人称の大きな武器である、
心理描写や心象風景に頼れない以上、
必定、
映画やテレビドラマの人称は、
内面の描写を必要としない三人称に絞られ、
それゆえ、
映像作品においては、
一人称の作品は(ほとんど)存在せず、
一人称、三人称ともに主流である小説とは違い、
三人称が前提であるために、
そもそも人称の切り口から論じる必要性がない、
というのが、
この記事の結論なのですが、

それをいったら身も蓋もないので、
以下、
人称の切り口からストーリーを眺め、
映像における人称とは何か、
可能な限り、
掘り下げていきたいと思います。






小説の人称とは

映像の人称とは何かを知る上で、
上記ブログを引用させていただきつつ、
まず小説の人称について説明します。

https://sakka.club/days/write/ninnsyou/  

引用の通り、
私や僕を主語とし、
主人公目線から語られるのが、
一人称のストーリーです。

夏目漱石の「こころ」なら、
学生の私による先生との交流を描いた話、
太宰の「人間失格」なら、
自分(作者)による破滅を遂げるまでの話、
芥川の「歯車」なら、
僕(作者)による幻覚にとりつかれる話です。

一人称視点では客観視点を描くことができず、主人公の知っている範囲しか描けないという制約があります。つまり、「(後になって知ったことだけれど)僕が寝ていたとき妹は……」というのはしにくいのです(私はしてもいいと思うんですが、否定するかたもいらっしゃる。見てきたように書くなと)。

https://sakka.club/days/write/ninnsyou/  

このように、
主人公が知り得ないことは描写できない、
という制約を持っている点が、
後述する三人称とは異なる、
一人称の大きな特徴です。


https://sakka.club/days/write/ninnsyou/  

二人称では、あなた、君が主語になります。

二人称で書かれた小説は、
ほとんど見かけませんが、

自分がぱっと思いつくのが、
有島武郎の「生まれいづる悩み」です。

絵の優れた才能を持ち、
絵描きを志しながら、
家業に追われ、
絵を描く時間がない、

そんな若者の姿を、
文学者である私による視点から捉えた話です。

(少し読み返したところ、
正確には二人称小説ではなく、
後半パートのみ二人称の構成になっていました)

以下、
後半パートの一部を引用します。

もう自然はもとの自然だった。いつのまにか元どおりな崩壊したようなさびしい表情に満たされて涯もなく君の周囲に広がっていた。君はそれを感ずると、ひたと底のない寂寥の念に襲われだした。男らしい君の胸をぎゅっと引きしめるようにして、熱い涙がとめどなく流れ始めた。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/1111_20600.html 

このように君を主語とし、
君が主体になっているため、

私(文学者)視点による、
君(若者)を主人公としたものが、
二人称のストーリーといえます。

この二人称については、
今回色々と思ったところがあるので、
後ほどまた詳しく書きます。


https://sakka.club/days/write/ninnsyou/   

彼や彼女(あるいは人物名)を主語とし、
一人称と同じく、
主人公目線から語られるのが、
三人称(一元視点)のストーリーです。

「羅生門」「蜘蛛の糸」「トロッコ」など、
芥川の初期の作品のほとんどが、
この三人称一元視点です。

あるいは、
ジョバンニが主人公の「銀河鉄道の夜」も、
メロスが主人公の「走れメロス」もそうです。

引用の通り、
三人称一元視点は、
主人公のみ内面描写が可能で、
かつ、
一人称では制約がかかっている、
主人公が知り得ないことも描写できるため、
主観と客観の双方を描ける、
使い勝手のいい視点といえます。

https://sakka.club/days/write/ninnsyou/  

三人称(神視点)については、
自分の解釈があっているかわかりませんが、

複数の登場人物を俯瞰視点から描いた、
芥川の「玄鶴山房」、
あるいは、
主語は一人称になりますが、
一つの事件を登場人物それぞれの視点で描いた「藪の中」、
が三人称(神視点)のストーリーに該当するかと思います。

心理描写を排し、
登場人物のアクションだけを描いた、
映画的な作品群を指して、
三人称(神視点)と呼ぶのであれば、
自分が説明しているのは、

複数の内面描写を入れる場合を多視点といいます。

https://sakka.club/days/write/ninnsyou/  

こちらの、
三人称(多視点)のほうかもしれません。

(この記事では、
神視点=多視点としますが、)
いずれにせよ、
小説における人称視点とは、
・一人称視点
・二人称視点
・三人称(一元視点)
・三人称(神視点)
の四つのパターンとなります。



一人称の映像とは

映像作品の場合、
私、君、彼、といった、
主語で人称を判断できる小説と違い、
ストーリーを見ただけでは、
何人称のストーリーなのか、
明確にわからない部分があります。

たとえば、
映画で使われるモノローグは、
小説でいう地の文に相当しますが、

「私は怒っている」
というモノローグがあるとして、
一人称の内面描写なのか、
三人称一元視点の内面描写なのか、
区別がつきません。

主語は私であり、
それに従えば一人称のストーリーですが、
前述した通り、
大半の映像作品が、
主観と客観を交えた三人称一元視点であり、
そうした映画には、
モノローグが使われているものも、
たくさんあるからです。
(そして当然ながら、
モノローグである以上、
主語は一人称になります)

つまり、
映画やテレビドラマにおいては、
「私は怒っている」
といったモノローグが使われていれば、
一人称のストーリーで、
「彼は怒っている」
といったナレーションが使われていれば、
三人称のストーリー、
というような分け方は、
意味をなさないのです。

この点が、
冒頭であげた、
映画のほとんどが三人称のストーリー、
という理由と併せて、
人称の角度から、
技術論などが語られない理由だと思います。

したがって、
映像作品においては、
人称の区別が難しいとした上で、

この作品は一人称と呼べる、
と明確にいえるものに、
POV視点のストーリーがあります。

https://filmarks.com/movies/19293 

POVとは「Point Of View」の略であり、
主観映像のことです。 

POVを世に知らしめた「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」は、
モキュメンタリー形式の作品であり、

曰く付きのスポットを撮影していた若者たちが、
そのまま消息不明となり、
後日、
撮影カメラのみ発見され、
カメラに残っていた映像を発見者によってまとめられたものが、
本作のストーリー、
という設定の映画です。

主観映像の多くは、
こうしたモキュメンタリー形式の作品で用いられており、

映像作品における一人称視点は、
限定的なジャンルのみで用いられる、
ニッチな人称、
と見なすことができます。

もちろん、
モキュメンタリー以外にも、
主観映像の作品は、
少ないながら存在はします。

自分は未見なので推測になりますが、
主人公の目線がカメラになっている、
ゲームのFPS(主観映像のガンシューティング)のようなものなのだと思います。

一人称視点が面白いのであれば、
そうした映画がもっと増えてもおかしくはないはずですが、
その気配がないところをみると、
三人称視点の映像と比べて、
一人称視点の映像はつまらないのだと思います。

なぜ、
つまらないのか、
を考えたとき、
蛇足だから、
という理由が思いつきます。

多くの場合、
観客は主人公と自分を重ね合わせ、
感情移入してストーリーを楽しみますが、
主観映像のように、
最初から強制的に重ね合わせられると、
ありがた迷惑的な感じで、
返ってその気が失せてしまうのでは、
というのが自分の推測です。



ちなみに、
自分もアマチュアで脚本を書いており、
モキュメンタリー形式以外で、
一人称視点の映画をどうにか成立させることはできないか、
一時期考えていたことがありました。

それで一つ思いついたのが、
主人公を観察者にするやり方です。

冒頭にあげた「人間失格」や「歯車」は、
私(主人公)という語り手による私(主人公)の物語ですが、

一人称視点の小説には、
もう一つ、
私(主人公)という語り手が観察者に徹しているタイプの作品も存在します。

芥川でいえば「蜜柑」がそうです。

汽車の中で、
私という主人公が、
奉公に出る女学生を、
冷徹な視点で観察をする話であり、

主人公こそ私ですが、
物語の主役はあくまで女学生です。

そうしたタイプの一人称視点であれば、
映画でもいけるのでは、
とあれこれ思案し、
生み出したアイデアが、
(新しいアイデアかどうかは別にして)
野良猫視点で、
市井の人間たちの生活を観察する、
そうしたストーリーです。

つまり、
野良猫目線=撮影カメラとし、
野良猫の主観映像を通して、
そこに映し出される人間模様を描いた、
一人称視点のストーリーであり、

そうしたストーリーなら、
一人称視点でも成立するような気がしました。

そして、
そのアイデアをさらに煮詰め、
構想5年の果てに完成させたのが、
自作「顔のない男の子」です。

(ストーリーの内容は省略するとして)
以下、
その当時に投稿した、
調子こいたツイートとなります。




二人称の映像とは

先ほど「生まれいづる悩み」を例にあげましたが、
二人称の小説といわれても、
いまいちイメージがわかない、
という方もいるかもしれません。
(自分も最近までそうでした)

まして二人称の映像(映画)ともなると、
さらにピンとこないと思うのですが、
「ショーシャンクの空に」、
が該当する気がします。

https://filmarks.com/movies/19119 

本作は、
冤罪で刑務所に入った主人公アンディが、
脱獄に至るまでを描いた話ですが、

「ダイハード」や「レオン」などの、
一般的な映画のストーリーと異なるのは、
主人公であるアンディの行動が、
他の囚人であるレッドの視点から語られている点です。

レッドの視点といっても、
レッドの主観映像といったことではなく、
刑務所内でのアンディの様子を、
レッドが観察し、
それをナレーションで観客に伝える、
という形です。

したがって、
主語に使われている人称は、
私(レッド)という一人称であり、
君(アンディ)ではないのですが、

ストーリーの形としては、
「生まれいづる悩み」と同様、
私(レッド)視点から見た、
君(アンディ)の物語です。

つまり、
一人称視点のストーリーを、
私から見た私を主人公とする物語、
とするならば、
二人称視点のストーリーの本質とは、
私から見た君を主人公とする物語、
といえます。

そう考えたとき、
先ほど例にあげた、
芥川の「蜜柑」も、
私という一人称で書かれていますが、
私(主人公)から見た、
君(女学生)を主人公とした物語なので、
実質は二人称、
あるいは、
一人称と二人称の中間のストーリー、
と呼べると思います。

自分がアイデアとしてあげた、
野良猫視点の話も同じように、
私(野良猫)から見た、
君(人間たち)を主人公とした物語です。

あるいは、
冒頭であげた、
一人称小説の、
「こころ」、「人間失格」、「歯車」のうち、
「こころ」は、
二人称小説とも見なせます。

私という学生のフィルターを通して見た、
先生の物語であり、
主体は私(学生)ではなく、
君(先生)のほうだからです。

脚本用語的には(小説用語的にもそうかもしれませんが)、
「蜜柑」や「こころ」のような、
主人公でありながら、
舞台の中心に立つことなく、
舞台袖から、
観察者あるいは傍観者として物語を進めていく、
そうした主人公を指して、
狂言回し(の主人公)と呼びます。

君やあなた、
という人称が使われている小説は少なく、
二人称小説はレアだと思っていましたが、

ストーリーの型(主人公の型でもいい)、
という視点からみれば、
案外、
二人称小説と呼べるものは多いのでは、
今回記事を書きながら、
そんなことを新たに考えた次第です。





三人称(一元視点)の映像とは

肌感覚ですが、
映画やテレビドラマの多くを占めるのが、
この三人称(一元視点)かと思います。

「レオン」や「ダイハード」など、
主人公に焦点を当てて、
ストーリーが展開されるタイプの作品が、
三人称(一元視点)に該当します。

客観視点を描きながら、登場人物(特定の1人)の内面描写も可能とします。

https://sakka.club/days/write/ninnsyou/

引用の通り、
三人称(一元視点)では、
客観視点と内面描写の両立が可能です。

よく見受けられるパターンとしては、
円滑かつ迅速にストーリーのセットアップをする都合上、
冒頭の10分程度は、
私は○○だ、
といった主人公によるモノローグを使用し、
セットアップが終わり次第、
モノローグの使用をやめ、
速やかに三人称視点に移行する、
というものです。

そうした映画は、
三人称(一元視点)といえますが、
一方で、
小説ではタブーとされる、
一人称と三人称の混同、
という見方もできます。

前述しましたが、 
ややこしいのは、
小説の場合、
主語で人称を明確に見分けられるため、
一人称と三人称の、
混同は明らかですが、

映画の場合、
主観映像でもない限り、
一人称と三人称の、
区別がつかない点です。

https://filmarks.com/movies/73391 

本作は、
(いじられることもある県である)群馬に転校してきた主人公の話であり、

通常の映画と比べると、 
主人公によるモノローグが多く、
極めて一人称的なストーリーですが、

主観映像ではないため、
主観と客観の混合に対しては、
特に不自然さは感じません。

https://filmarks.com/movies/10955 

一方、
「タイタニック」の場合は、
個人的な感覚ですが、
多少違和感があります。

本作は、
私(年老いたローズ)が、
若き日の自分を回想する話であり、

年老いたローズによる一人称の話といえますが、
回想パートでは、
ローズが知り得ないジャックの行動などが描写されており、
その点に人称の混同を感じます。

視点人物の目をカメラとする。視点人物の見えていること、知っていること、考えていることだけしか描けない。

https://sakka.club/days/write/ninnsyou/

しかしながら、
ストーリー全体として見ると、
人称の混同は、
少し気になる程度の、
些末なことであり、

こうした過去の作品をみる限り、
映画の場合、
小説ほど、
人称の混同をタブー視していないし、
あるいは、
観客もそれを受け入れてくれる、
というのが、
自分の印象となります。



https://filmarks.com/movies/109010 

三人称(一元視点)には、
主人公に焦点を当てるパターンのほかに、
主人公以外の人物に焦点当てたパターンも存在します。

鳥山明原作の「SAND LAND」では、
ベルゼブブいう悪魔が主人公ですが、
物語の主体となっている人物、
つまり、
実質の主人公は、
ベルゼブブと行動を共にする脇役である、
人間のラウです。

この構成は、
二人称のところで説明した、
主人公でありながら、
舞台の中心に立たず、
舞台袖でストーリーを進める主人公、 
つまり、
狂言回しの主人公、
と本質は同じです。

二人称との違いとしては、
私視点か、
客観視点か、
その違いです。

夏目漱石の「こころ」は、
私(学生という主人公)視点による、
君(先生)の物語ですが、

「SAND LAND」の場合は、
視点は客観で固定されており、
人物配置として、
主人公(ベルゼブブ)と、
脇役(ラウ)という並びがまずあります。

その上で、
主人公(ベルゼブブ)は、
一見主人公然としていますが、
その実、
物語には関知しない観察者であり、
物語の中心に位置する、
本当の主人公は脇役(ラウ)、
そうした関係性になっているのです。

このタイプは、
「相棒」や「水戸黄門」など、
一話完結型のテレビドラマに多く見受けられます。

「相棒」では、
杉下右京が主人公ですが、
実質の主人公、
つまり、
物語の主体になるのは、
その回に登場するゲストです。

そうした各話のゲストを主役とする、
一話完結型の作品は、
本質的には、
私(主人公)視点による、
君(ゲスト)を主人公とした物語であり、
二人称のストーリーといえるかと思います。




三人称(神視点)の映像とは

神視点を、
特定の人物に偏ることなく、
複数の人物に満遍なく焦点を当てた俯瞰視点と見なし、

以下、
神視点=多視点で描かれたストーリー、
という定義で話を進めさせていただくと、

三人称(神視点)とは、
複数の主人公をもった群像劇といえます。

https://filmarks.com/movies/27447 

「グランドホテル」は、
高級ホテルを舞台とし、
複数の主人公による、
複数のストーリーが織りなされる作品であり、
三人称(神視点)のストーリーに該当します。

前述した、
山荘を舞台にし、
複数の登場人物の心理を描いた「玄鶴山房」も、
このグランドホテル形式を取った小説です。

https://filmarks.com/movies/106550 

もう一つの例に挙げた「藪の中」なら、
「怪物」のパターンです。

「怪物」は、
学校のイジメという、
一つの事件を、
複数の登場人物の視点から多角的に描いたものであり、
一つの事件を俯瞰しているという意味で、
三人称(神視点)のストーリーといえます。

この群像劇については、
先日詳しく書きましたので、
以下の記事もご参照ください。https://note.com/furaidopoteto/n/ne7781b7579ec



映像作品の人称とは

最後に簡単なまとめになりますが、
ここまで書いてきたように、

映像作品の人称とは、
・pov視点の主人公のストーリー(一人称)
・狂言回しの主人公を持ったストーリー(二人称)
・主人公に焦点を当てたストーリー(三人称一元視点)
・複数の主人公を持ったストーリー(三人称神視点)
の四パターンに分かれます。

つまるところ、
人称とは、
主人公がどのような形態であるか、
あるいは、
どのような役割を持っているか、
に置き換えることができると思います。

一人称 POV視点の主人公
二人称 狂言回しの主人公
三人称(一元視点) 一般的な主人公
三人称(神視点) 複数の主人公

一人称であれば、
主人公目線とカメラが同一、
という主観映像の形態を取っています。

三人称(一元視点)なら、
主人公に焦点を当てる形態、
三人称(神視点)なら、
複数の人物(複数の主人公)に焦点が当てられます。

形態こそ違いますが、
役割としては主人公、
つまり、
物語の主体となるキャラクターです。

一方、
二人称のみ主人公の役割が異なります。

立ち位置的には主人公であり、
主人公然としているものの、
実際に焦点が当てられるのは別の人物であり、
主人公はその人物の物語を語る狂言回しです。

このように主人公を軸にして分類したものが、
人称の分類に相当する以上、

映像作品の場合、
取り立てて人称については語る必要がないのかもしれない、
と改めて考えた次第です。

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