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まだ社会人はムリみたい。


 ――――――過去を他人に否定されて、またそれが図星だったとき、世間ではどのようにして自分を保つのだろうか。



 今週のうちに面接を2社受けた。
 どちらも内定を貰える自信なんてまるでない。だが、面接官にありがたいお言葉をもらったことで、来てよかったと思って、いた……。


 先日、説明会に参加した会社に履歴書を渡し、一次面接を受けることになった。
 面接官は説明会を担当していた会うのが2度目の"おじさん"で、雑談をしているかのような柔らかい口調で次々と質問を投げ掛けてきた。

 
 ついつい緊張もほぐれてしまい、私は自身のことをとても正直に話していた。
 頑固な性格をはじめ、どうして教育学部に入りながら教員にならなかったかや卒業してから働かなかった理由など…。

 "おじさん"は一つ一つにコメントやアドバイスのような一言を付けた。
 最も響いた言葉は、私が質問した、「この仕事をしていて悔しいことがあったとき、何を考えて乗り越えられましたか。」への答えだ。

「良い意味で、学んで、忘れることです。」

 私に足りないものはそれだと思った。
 例えこの面接で落ちたとしても今後の人生に大切なことを学んだようで、充実感がムクムクと膨れていった。
 そんな気持ちで帰路についたのである。


 次の日、"おじさん"の言葉を忘れまいと日記を書いていた。
 すると、24時間も経っていないにも関わらず、充実感はもうどこにも見当たらなかった。

「頑固な性格を直すためにとりあえずやってみることを意識しているのなら、就職もどこかへしておくべきだったのではないでしょうかね。」

「学校の校則でなくとも、社会に出たら様々なルールがあるのは当たり前です。」

「正直なのは良いことですが、大人としては空気は読まないといけませんし、本音と建前は使い分けるべきです。」


 どれも常識で、今までにもさんざん言われてきた言葉たち。
 だが、(勝手に)信頼を寄せ、正直に自分をさらけ出した"おじさん"に言われたと思うと期待を裏切られたようで、私は傷付いていたのだ。(勝手に)


 私は社会に必要とされる人間である、本当の自分を見れば誰もが魅力を感じると、どこかで思っていたのだと思う。
 しかし企業が求める人材を装わなければ、私は社会不適合者なのだと実感させられた。

 そのことを家族に話すと、「あなたはそのままでいいのよ」と祖母、母、姉に言われた。
 
 温かい言葉だと思う。
 けど救われわしなかった。
 むしろ、「本当に私のことを知っているのは一体誰なのだろう」という終わりなき疑問が頭と心を埋めていくばかりであった。



 "おじさん"は今の私の姿を見て、そんな私を作り上げた23年間を否定した。
 


と感じるのは、まだ私が子どもだから、でしょ。