誰も彼も殺さないでいて

今日も私は孤独だった。毎日毎日孤独を誤魔化し、宥めながら過ごしている。ある時は今は亡き文豪に慰められ、またある時は他者からすれば呆れるような甘味に舌鼓を打ちながら。しかしどれもこれも刹那的であり私の孤独を払拭するに値はしなかった。一瞬一瞬を紡ぐことでその間に忍び寄る孤独の陰から目を逸らし、何とか逃れて過ごしているような日々だった。
陽気で開放的な人間になるのはもう随分と前に諦めたが、私にもし神でもいればなにか変わっていただろうかと考える。大した信仰心も持ち合わせず何に縋ることもできないままの今よりも、少しは楽になったのかもしれない。そんな無意味な思考は誰に伝えられるでもなく巡っては消えていった。

私は常に己にとって都合のいい誰かの幻影を追い求めているのだと思う。ふらりと寄った公園で偶然よく会うような人がいたらいいのになとか、いつもの図書館で好きな作家の本について話せる人と出会えたらいいのにとか、有り得もしないようなことばかり考えている。しかしそんな都合のいいことは起こらないし、起こったとしても私にでは無いだろう。ましてや自ら行動するような勇気も愛想も持ち合わせていない私だから、自ずとアクションを、などというのは更にありえないことだ。

誰かを求めているのに動けないのは私が意気地無しであること以外にも理由がある。私が排他的な人間であるからだ。本当に面倒な人間だと言うのは百も承知している。だからこそ動けないし、動くだけ無意味だと諦めてしまっているのだ。何も私が素晴らしい人間であるからそれに釣り合うような人しか受け入れられないとか、そういう類のものではない。人間関係における倫理観やふとした時の所作、何気ない言葉のような些細なところで私は人を遠ざけてしまうし、また反対に強く惹かれてしまうのだ。無論何もかもが思い通りでなければならない訳では無いが、私の中にはあらゆる点においてあらゆる基準があるようだった。それを大幅に下回る時が幾度もあると、私は人付き合いが苦しくなって立ち行かなくなる。それは自分に向けられた行動や言動もさることながら、他者に向けられたそれらも包含している。このことがより私を苦しめているとは自覚しているにせよ、何分本能的で本質的な部分のようで変えることもままならないことはもう今までの人生で何度も何度も繰り返し認識させられてきた。

ひとつ断っておきたいのは、何も私の思うような素晴らしい人がいないだなんて傲慢なことを思っている訳では無いということだ。ただ、私は己のそう言った煩雑さのような面を十分認識しているし、その点においては自分自身にのみ責任の所在を求めている。これは私が負った罪、業であり、その罰として孤独を課されているのだ。

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