見出し画像

2024年3月11日

 震災の話をします。お気を付け下さい。





 13年前のこと。もう13年も前だ、びっくり。
 あまりにも鮮烈な出来事だから忘れていないつもりになっていたけど、たぶんあとから見聞きしたもので脚色されていると思う。
 あのときは4歳だったはずだ。時の流れは恐ろしく早い。
 でも4歳だった私が覚えているほどに、内陸にいた私が覚えているほどに、衝撃的な出来事だった。

 もう二度とそのような災害が発生しないという確証があるのならば、それらについて忘れても構わないと考えたことがあった。
 私とその家族はほとんど被害がなかったけれど、それでもテレビを見る度に辛い現実が映し出されていた。幼い私にはあまり理解できていなかったけど大変だということだけがわかった。
 なるべくなら思い出したくない。でも忘れることはそれまでの全てを無かったことにすることと同値ではないだろうか?そこで生きていたすべてのものを無かったことにはしたくない。

 一応あの地震を東北の地で経験していた者として、厚かましいけれど、これからの世代に語り継いでいきたい。

 あくまでもn=1、こんな人もいたんだなぁ程度に思っていただければと思います。

 以下、当時の話を記憶の限り書きます。


 2011年3月11日午後2時46分、東北の太平洋側の少し内陸にある保育園ではお昼寝の時間だった。私は震度6強で揺れている中眠り続けた。恐らく揺れ始めてから数分が経過した頃、先生に叩き起こされた。目を開けた瞬間世界が揺れていて、遊園地でも体験したことのないような揺れで、あまりの恐怖に私は泣き始めた。
 今寝ている部屋から園庭に出るまで2つほど部屋を経由する必要があった。その部屋は給食を食べるときやみんなが一斉に作業するときに使うような、大きな机が8つほど並んだ部屋で、ほら地震のときって机の下に隠れるべきでしょ、それで近くの机に潜り、揺れが小さくなる度に隣の机に移動して……と移動を繰り返してついには園庭へ出た。
 確かあの日は曇りだった。ギリギリ雨や雪は降っていなかったはずだ。
 お昼寝の途中であったため、先生がみんなの布団を集めて持ってきて、ランダムに配布した(すなわち他人の布団を使う可能性があるのだが、別にどうでも良かった)。私はもうずっと泣きじゃくっていて、布団の持ち主であるチャラ男な友人に「俺の布団汚すなよ!」と言われた。(余談:この人とは小3のときスイミングスクールで再会した。別の友人のことは覚えていたが私のことは覚えていなかったそうな!)
 当時から食にしか目が無かったため、もう3時過ぎてるけどおやついつなんだろう……などと呑気なことを考えていた。結局おやつは食べないまま、すぐ近くの職場で勤務している母親が車で迎えに来た。その車の中で、ガーナの個包装のチョコレートを何枚か食べた。
 その日は母親の職場で過ごした。私と同じくらいの年齢の人もいたはずだ、みんな絵を描くなどしていた。近くにいた誰かが描いた東北新幹線はやぶさのイラストが上手かったことは覚えている。夕飯のアルファ米の五目ごはんが美味しかった。あの味は今でも覚えている。
 夜は助手席のシートを倒して車中泊だった。そんな状況で熟睡していたので大したもんである。
 これはあとから聞いた話だが、私は缶のコーンポタージュを飲み終わってもずっと持っていたらしい。そしてそれが可哀想に見えたようで、おにぎりとかもらってたらしい。たぶん何粒か残っていたのを取りたかっただけだと思うけど。

 恐らく余震がたくさん発生しておりその度に私や周りの人は泣いていたと思うのだけど、そのあたりに関してはなんにも覚えていない。

 地震の翌日?に一度家へ帰ったはず。トイレの水が溢れてしまったためお気に入りのキティちゃんのスリッパが使えなくなっていた。悲しい。醤油皿が5枚割れた。揺れの向きが幸いしてか、ものが壊れる系の被害はあまりなかった。
 それから、中層マンションの中層階まで全部階段移動だった。私は当時は体力があり余っていたため余裕だったが普通にキツいと思う。
 親がこの家を買うときに11階の部屋とどっちにするか悩んだと聞いた。その時の決め手は「地震などでエレベーターが止まったときに、11階は階段だとキツいけどこの階ならギリ階段で行けそうだから」らしい。ナイス判断。

 その次の日あたりに日本海側の祖父母宅へと避難した。親に送ってもらったあと、ここから1ヶ月ほど両親から離れて過ごすことになる。
 正直この期間の話はしょうもないやつばっかりである。例えばコピー用紙にヘアゴムを2つつけてマスクを作ったりテプラで謎の文言を大量印刷したり、髪の毛に付いたガムはヘアオイルではがせると聞いて試してみたくて髪にガムくっつけたら試す前に祖母に引っ剥がされて痛かったとかそういうのばっかり。
 それと、このとき初めて地元県の位置を理解した。太平洋側と日本海側の違いがなんとなくわかった。というのも、私は緊急地震速報が鳴るたびに泣いて卓袱台の下に隠れて「津波大丈夫なの?」と聞いていたのだが、祖母が「ここ日本海側だから大丈夫だよ」と言ってくれたからだ。
 祖父母に甘やかされていたこと、また機嫌を悪くしても食べ物を与えればすぐに直ることから多量の食べ物を与えられていたため、その期間でずいぶんと太った。

 4月に入ってからしばらくして、ようやく親が迎えに来た。あの日揺れてなければ父親の誕生日パーティーをする予定だったので、その日はタルトを食べた。小さいタルトカップだけ用意して、中身は自分で盛り付けるスタイルのやつ。父親の誕生日を祝うはずなのに私の意見が優先されたの今考えると解せないな。
 家に帰ったとき、なんか変な感じというか、いつもと違う感じがした。家具の配置とか変わってたのかな?全然覚えてないや。それから安心感と不安感もあった。
 久しぶりに保育園に行った。園長先生が「震災のあとガラスや蛍光灯が壊れて…(中略)…でも先生達が頑張ってくれて…1ヶ月ぶりにみんなの元気な顔を見れて嬉しいです」みたいな話をしていたような気がする。私はそれまで親が忙しくて帰って来られないから(保育園はやってるけど夜までに迎えに行けないから)祖父母宅に預けられていたのだと思い込んでいたのだけど、どうやら保育園がやっていないから祖父母宅にいたようだと気付いた。このことに気付いたのは最近のことかもしれない。
 友達はみんな無事だった。その期間どのように過ごしていたのかは知らない。


 たぶんこのくらいしか当時のことを覚えていない、というかこの記憶が正しいかどうかすらわからない。

 ちょっと内陸だから津波は全くなかった……と思っていたが、歩いていけるくらい近くまで近所の川が逆流していたらしいというのを最近知った。知らなかったら怖くなかったのに。

 この家に今も残っている地震の痕跡は、怠惰な私が修理を拒んでいる自室の壁紙の裂け目くらいしかない。
 地震後に製本テープで隠したこの裂け目だが、2、3年前の地震によってまた裂け目が大きくなった。てか製本テープごと破れた。2年連続で3月にでかい地震が来たから、どうせ来年も来るでしょ。ならもう何回か地震来てから修理すれば良くない?と考えているため、こんなにボロボロになった壁をまだ直していない。

コピー用紙とか入る

 2年前3年前の地震は両方ともかなり夜遅い時間に発生していて、それで両親は夜中でも仕事に行っていた。私もそれに付いていった。職場用のスマホからも緊急地震速報が鳴り止まないし、仕事の電話もたくさん来るからすごく大変なんだろうな、と思っていた。当時中学生の私にできることなんて全然なかったから悔しかった。まあ書類とかの仕事を任せるわけにはいかないので当然といえば当然である。なので自主的に、地震でヒビの入った天井の欠片(パワーワード)を拾っていた。
 揺れの向きが悪く、自室に置いていたイケアのラックとか全部倒れてしまった。アクスタとかCDとかが傷ついたら嫌だから、毛布に包んでから家を出た。

もともと汚い部屋ではあったが……

 あんなに大きい地震に見舞われたのに、翌日から通常営業(天井から業務用のエアコンが落ちそうになってその真下は立入禁止になってるとか床のタイルズレてるとかはあったけど)している店ばっかりで嬉しかった。この街は最強だなって思った。

ラストおはぎ(地震翌日のスーパーにて)

 ここにいる限りは地震と共存していかなくてはならない。嫌だよ、もう揺れるな。でも例えば東京とかで同程度の地震が発生して都市機能が麻痺するとかがあったら、それよりかはまだ地震慣れ(最悪の言葉)している東北を揺らして頂いた方が……とは思うけど。

 1月の地震が発生したとき、私はバイクに乗っており、緊急地震速報が聞こえたから路肩に寄せて止まったけど全然揺れなかった。だからあんなことになっていたと知ったのは数時間後、退勤してからである。
 何もすることができないから辛かった。流れてくる情報はどれも正しいとは言い切れないから余計に辛い。震災のとき他県の人はこんな感じだったのかな、と思った。そりゃSNSの有無とか違いはあるけどさ。
 それでも最近は復興に向けての明るいニュースが多くて嬉しい。良いことはなんぼあってもいいですからね、たくさん報道して欲しい。

 小学校では毎年3月の集会で震災の話をされていた。小6の時に「今の1年生は震災を知らない」と聞いたときはさすがにびっくりした。時の流れ。とはいえ我々も殆ど記憶がない訳だが。

 震災以降、私は防災に強い関心を持っていたような気がする。非常持出袋を定期的に確認し、ローリングストックを実践し、家具を固定し……色々やったはずだ。親族の電話番号をメモした紙をランドセルのポケットに入れていた。
 先日図書館に行ったら(3月なので)震災や防災に関する本が特集されていた。ちらっと背表紙を見ると見たことのある本だらけだった。たくさん読んでたんだな、そして得た知識を実行していた。えらい、小学生の私。
 中学生の私は棚の上に修学旅行で買った木刀を置くのはやめろ。リングコンも置くな。


 今はもう震災を知らない人も増えているし、経験していたとしても忘れかけている人も多いはずだ。私もこのnote書こうとしなければ忘れていたものだし。
 でも、今日だけは思いだす。


 それから、今日がお誕生日の方、おめでとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?