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#01 暗い80年代と得体の知れないノイズ ~ The Stalin 『虫』 (1983) - その1

音楽の轍(わだち)、音楽の傷口

音楽は水平方向へと伝播する。轍に沿って届けられる。そこから逃れることはできない。どんなに珍奇な音楽だとしても、それが流通され私たちの耳元に届けられること自体が水平のベクトルを持つできごとです。ライブを開催して客に向かって演奏することも、そこでしばしばメッセージなるものが伝達されるのも轍に沿うこと。臓物は客に向かって水平方向に投げつけられる。さらに、音楽は時間軸にそって水平方向に流れると我々がイメージしていること自体が轍の中の思考なのです。

雪国育ちの人ならば、轍といえば雪の車道につけられたタイヤの跡を思い浮かべるかも知れない。除雪もされない裏路地には深い轍ができることがある。この轍に沿って走れば取りあえずはスムーズに移動できる。でも同じ轍の上を前方から対向車がやって来たときは厄介です。ハンドルをグイッと左側に切って、お互いに轍から抜け出してやり過ごすほかありません。雪が柔らかいうちはそれほど問題ではないけれど、アイスバーンとなると大変です。轍の壁面をなんとか登るとき、車体がグッと持ち上がります。昔のスパイクタイヤならこのとき、轍に対して斜めに鋭い傷を残すことになる。

負の音楽はこの傷口からほとばしる。水平方向の伝播に対する、垂直方向の振動、ゆらぎのようなものがある前回のじゃがたらの記事の中で「音楽が通過してゆく通り道、ただのパイプ…」などと表現したものは、端的に傷口と言って差し支えないかも知れません。岡本太郎はこう記している、「人間自体が傷口なのだ」と。

1983年には特異な傷口がそこらじゅうにあった。海外ではマーク・スチュワートによる初のソロ・アルバム『Learning To Cope With Cowardice』や、E・ノイバウテンの世界デビュー作となる『患者O.T.のスケッチ』が相次いでリリースされ、ニューヨークの地下室でスワンズが胎動している。国内ではEP-4による「5.21」騒動の果てに『Multilevel Holarchy』が出現し、日比谷野音では「天獄注射の昼」の饗宴が催され、年末の法政大ではじゃがたらによる、後に『君と踊りあかそう日の出を見るまで』で日の目を見る伝説的なライブが敢行されている。

ニューウェイブの爛熟の果て、パンクが潰える臨界点で音楽がほとばしっていた。そして『虫』がリリースされた。

未明から到来するもの

リアルタイムでスターリンを聴いていた世代なら「虫」というごくありふれた言葉の響きに、なにか只ならぬ殺気めいた気配を感知する人もいるのではないだろうか。『Stop Jap』から『Go Go スターリン』を経て『虫』へと、そのタイトルを追うだけで意味性が一枚一枚はがれ落ちてゆく感触があります。

月並みな表現にはなりますが、個人的な音楽体験において、初めて『虫』を聴いたときの衝撃を超えるものはない。1983年の初夏だったろうか、クラスメイトのK君が『虫』と12インチシングル『Go Go スターリン』を録音したカセットテープを聴かせてくれたとき、カルチャーの裂け目に墜落したような気がした。いや、言い直そう。遠藤ミチロウに内臓を鷲掴みにされて肥溜めに引きずり込まれた。この生活圏の底板を踏み抜いたその下層にも世界が広がっていることが理解できた。そこから響いてくる声に敏感になった。生活者としてはポンコツになった。けれども、死の間際でも自分を見失わずに済むような気がする。ポンコツなりにこうして文章も書いている。なのでK君には感謝しかないのです。

いま聴いてもこれは、音楽の極北に違いないと思います。当時はこれに比肩しうるようなものが他にあるとは、とても考えられなかった。例えば、初期のアナーキーのような音楽は、それを聴いている姿を、ある程度は親なりに見せつけないことには意味のない、自己主張ツールのような性質を持っているけれど、『虫』は決して親に聴かれてはいけないのです。そこに漂う不穏さは、この生活圏の外側から不意にやって来ては日常を鋭く揺さぶるものなのだから。

スターリンの音楽は何か妙なものを引き連れてくる。妙なものが琴線に触れてくる。それは音楽の深層の暗がりから、まだ音楽になる前の沈黙とか、軋みとか、滴りのようなものが立ち上る気配。このミチロウの声の起点にそういう未明の領域が隠されているのではないのか?という予感。この音楽を聴いて真っ先に、アルバム全体にみなぎるハードコアなスピード感よりもずっと速く到来するのは、きっとそういう微細なサインなのです。

それはちょうど、地震波のうちP波≒縦揺れの方が、S波≒横揺れよりも速く到達するメカニズムに似ている。そのような「音楽の負性/傷口性」が示す微震の到来によってどこかの扉が開くとき、私たちが音楽を語るときに中心的なトピックとなる、ビートとか、旋律とか、時代性とか、デジタルとか、臓物とか、コトバとか、、の何もかもが同時に体内に流れ込んできて、我々は音楽で満たされてしまうのです。

タムがはじく鉄弦の音が聴こえる

このアルバムにおけるタムのギター・プレイの素晴らしさに言葉もない。こんな演奏は他では決して体験できるものではない。泉谷しげるをして「鉄弦の臭い」がすると言わしめたそのサウンドの物質感を、今後100年に渡って、人々は何度も何度も再発見するに違いありません。

ディスチャージに由来するハードコア=粉砕の音響は、偏西風に乗ってアジアの突端へと運ばれる過程で、ジメジメした湿度感を帯びながら疾走する異形の音楽に変容してしまった。漆黒の呪術性を帯びたハードコア。それを駆動する推力は、うつむきながらギターをかき鳴らすタムの孤独な格闘に多くを依っている。譜(うた)の伴奏者としての領分に留まりながらも、絶え間ない手の動きによって、まるで自分が発した音塊に追いつかれまいとしているかのような高速で、鉄弦を弾く。その連続性、決して切断しない、ほとばしるまま。そのときフッと音楽が浮き上がるのです。まるでリニアモーターカーのように。

アルバムA面の「365」から「取り消し自由」に至る流れには、音楽史に刻まれるべき連綿とした浮遊の軌跡がある。同年にリリースされたコクトー・ツインズの2nd『Head Over Heels』と比すべき暗黒からの浮上がある。そのギターのリフは暗がりから音もなく立ち上がり、今もなお絶え間なく拡散し続けているのです。

詩人、吉増剛造氏の近著「詩とは何か」の中には「間断なく働く『根源乃手』」というフレーズが繰り返し登場する。これを目にしたとき、吉増氏の意図とはズレてはいると承知ながらも、超高速で「Die In」を弾くタムの手の動きを連想せずにはいられなかった。音楽を宙へ舞い上げようと腐心するその手の動きは、やはり傷口であるに違いないのです。それは私たちの中の太古の神経回路、打ち捨てられた記憶のようなものと直に共振する。これが琴線に触れるという体験なのかも知れない。そうなるともはや『虫』に巻き込まれるより他ない。ヘッドホンでそれを聴くとき世界は『虫』性で満たされている。

などと綴っているうちに、ミチロウのことを書くスペースがなくなってしまいました。次回に続きます。

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