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#01 暗い80年代と得体の知れないノイズ ~ 暗黒大陸じゃがたら 『南蛮渡来』 (1982) - その1 付属ソノシートについて

ツチクレの中にて

江戸アケミは胸まで土に埋もれている。歌いながら泥を吐いている。有明海のムツゴロウを干潟から引きあげて、ぽつんと水槽の中に留め置いたとしたら、それは最早ムツゴロウではありえないように、むしろ干潟そのものに目玉と背びれがついたものがムツゴロウであるのと同じように、アケミが浸かっているその土塊も含めてじゃがたらなのだ。

そのような不合理がじゃがたらの音楽には最初から含まれている。だからアケミがただ歌うだけで、たとえそれが楽しげであったとしても、時として不気味なのだ。しかしながら、その手の不気味さ、猥雑さ、得体の知れなさ、いわば" 音楽の暗部 "がまるで抜け落ちてしまったような、淀みのないサウンドを聴かされる方がよっぽどストレスフルであり、免疫力が減退するというものです。

『For How Much Longer …』の記事の中でマーク・スチュワートはぬかるみにはまり込んで…云々、などと書いてはいるけれど、我が国のある種のミュージシャンはハナからそこに下半身を突っ込んだまま、足元から音楽ならざるものを吸い上げては撒き散らす。そういう所作をヘッチャラな顔でこなしているような印象があります。負の音楽が通過してゆく通り道、ただのパイプであるかのように佇みながら。なので、これ見よがしに泥の中にダイブする必要などなく、元よりぬかるみから生え出しているかのように彼らは歌うのです。

80年代初頭のじゃがたらやスターリンは、何に向けて汚物を投げつけたのだろうか?強固な地盤に立つ海外のミュージシャンが、なんとかして自らの音楽を混ぜかえそうと模索して採用したツール、ダブだのファンクだのエスノだのを、目ざとい誰かがかすめて、そのまま軟弱な土壌へと移植したはいいが、ズブズブと沈み込んでゆく滑稽な様相に対してではなかったのか。

「業界のタイコ持ち共よ、よく見ろよオマエの足元を」

饒舌さによって開く回路もあれば、黙って耳を傾けることによって開く回路もある。土に埋まっている人は、物事がロジカルに整序されようとする気配を察したとたん、そこへ混沌や逡巡や沈黙を投げ入れて、無秩序を呼び戻さずにはいられないのだ。

「やっぱ、自分の踊り方でおどればいいんだよ」
「なんのコッチャイ!」

遠い異国からの声

『南蛮渡来』を初めて聴いたのは、地味なジャケットの再プレス盤が出回っていた1985年のことだった。渋谷陽一氏による賛辞もあり、すでに日本のロック史に残る名盤であるとの評価は揺るぎないものであったし、そういう期待を持っての購入ではありました。しかし正直なところ、当初は「タンゴ」以外の曲の印象は薄かった。この再発盤にのみ付属していたソノシートの内容が強烈すぎたからです。

1981年というから、じゃがたらがライブハウスで傍若の限りをつくしていた頃だろうか。その片鱗を伝えるライブ音源から「日本人てくらいね」と「がまんできない」の2曲が収録されていた。誰がどういう意図で選曲したのかはわからないけれども、音楽に潜む" 豊穣な闇 "の部分がこちら側へ漏れ出すのを感じさせる、絶妙な不可解さを、これらの曲は伴っていると思います。

「日本人てくらいね」はもちろん『南蛮渡来』の冒頭のあの曲ですけど、その崩れ加減は凄まじい。公共の電波には決して乗せられないような代物ではありますが、こちらの方は既にYouTubeで聴くことができるので「がまんできない」の方をアップしてみました。

深夜、ラジオのチューニングを合わせているときにうっかり遠い外国の頼りない電波を受信して、それに思わず聴き入ってしまったときのように、ペラペラの塩ビ盤に刻まれたアケミの声を聴いているとなんだか気が遠くなってくる。「じゃがたらは本当に存在したのだろうか?」と。

憂いの果ての果てにふらりと漂う諦念(いま、" ふらり "と書いてハッと思い出したけれど、遠藤ミチロウが歌う「カノン」も諦念の系譜であったか…)、根源の明るさをともなう諦念。それが宙に霧散してしまう寸前の姿をかろうじて捉えた奇跡的な記録なのだと思います。

録音テープの回転ムラによるかすかな揺らぎが、音楽が立ち上がる場所に揺らめく始原のゆらぎみたいなものと何やらシンクロしているような気がしないだろうか?そして、それはモンスーン・アジアの各地の音楽、たとえばキンク・ゴングがフィールド録音したチベット仏教の念仏や、ベトナムの道端で弾き語る名もなきミュージシャンの傍をかすめて、エレクトリック・マイルスの特に1975年のライブ音源、またあるいはアンガス・マクリーズのような人の残した記録やある種のレゲエ・ミュージシャンの演奏、、こういったものと深いところで共振しているように、思うのです。

ともあれ、これが個人的な最初のじゃがたら体験でした。この時点ではアケミが療養中だったということもあり「がまんできない」はこのまま日の目を見ることもなく、それがあったという事実さえ霧散してしまうのだろうと、そう考えていた。なので、この歌が「もうがまんできない」と名前を変え、じゃがたら復活後の最初のアルバム『裸の王様』(1987) に収録されたのは嬉しい誤算だったのと同時に、ホーンが導入され、くっきりとした色彩を持ったその音像にはしばらく馴染めずにいたものです。

しかしながら、そこでのアケミの声は、バブルの喧騒に巻き込まれつつあった時代の空白地帯で、暗い海の中に降ろされたアンカー、命綱のようなアンカーだったのだと今は思います。それについてはまた別の機会で。

それは二度と再現できないということだけは知っている

1988年の夏、渋谷にオープンしたばかりのクラブ・クアトロにて、初めてじゃがたらのライブを観た。以来、可能な限り彼らのライブに足を運んだ。何回か通ううち、開演前のライブハウス、ことにインクスティック芝浦のフロアにて、何ともいえない微震のような、気配のような不思議なものが漂っていることに気がついた。それは場内に入った瞬間に「ああ、この感覚…」と立ち上がってくるのに、ライブが終わりそこを出た途端に霧散してしまう。帰宅してから、あれは会場の匂いだったのか、独特のざわめきだったのか、それとも人の体温だったのか、、などと思い返してみたところで、どうにも再現することが叶わない感覚。そして、次のライブでは、そのどれともまるで違う「ああ、これだ…」としか言えないものに再び、疑う余地もなく呑み込まれているのだ。そういうことを繰り返し、思い巡らせているうちに、江戸アケミに死なれてしまった。

モヤモヤは降り積もる。しかし、それでいいのだ。これについて考えることは私たちに課された西暦2000年分の宿題なのです。そして、それはこうした拙い文章であったとしても、外へと紡ぎ出す力を与えてくれる。

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