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#01 暗い80年代と得体の知れないノイズ ~ The Pop Group 『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?』 (1980)

追悼 マーク・スチュワート

人間とはあるとき世界への窓が開かれ、そして閉じられるようなものだ。そのタイミングを選ぶことはできない。あらかじめ不可能性と有限性を抱え込んだまま、なんとか生きていく。

小説家の保坂和志氏はこう記している。「駆動とは翻弄されること」であると。ひとつの表現が立ち上がろうとする場所で起きていることを、ここまで端的にとらえた言葉があるだろうか。それは、ときにぬかるみにはまり込んで悶えるように声を絞り出すマーク・スチュワートの姿を言い当てているようでもある。その歌はいつもノイズに埋もれ右往左往している。

再結成したポップ・グループの来日公演を観たとき、思ったよりも小ぢんまりして破綻のない演奏には物足りなさを覚えたけれど、ステージ上をときどき足をもつれさせながら、自分はどうしてここに囲われているのか?という根元的な憂いを抱え込んだまま檻の中で動き回る動物園のクマのように落ち着きなく、終始ウロウロしっぱなしだったM・スチュワートの挙動には響くものがあった。そこには揺るぎなさだとか安定感だとかの微塵も伺うことができなかった。

誇り高く堂々と?犬に喰わせろ!
頭から音楽にめり込んで音そのものになれ!
プレイヤーも客もカオスに放り込め!

そこでは世に蔓延るすべての「〜ねばならない」を抹殺するための音楽が鳴っていました。

揺るぎなさよりも、揺れ動きの方が死活的に大事なのだ。そこにこそ有限性の壁を突き破り、まだ見ぬ国の人たちや、もう死んでしまった人たちや、これから生まれてくる人たちとの対話が成り立つ鍵がある。だからこのnoteを通して不確かな足場の上でゆらいでいるような文章を綴っていきたいと思うのです。

不安定を愛でよ、不定型に遊べ。R.I.P. Mark Stewart

大友良英の告白

『For How Much Longer …』は錯乱の音楽だ。リリースから40数年を経た今でも私たちの" 積み増す "生活の領域を揺さぶり続ける。耳に馴染むということを拒み続けている。冒頭、バリの土にまみれたケチャの雄叫び(当初はそれが祝祭か何かの様子なのか?それとも東南アジアの何処かで民衆が蜂起した声であるのか?の判断がつきませんでしたが)から狂騒的ファンクへと直に接続する「Forces Of Oppression」を初めて聴いたとき、あまりの性急さに戦慄しつつも笑いが込み上げてきたものです。このボーカリストの" 捨て身 "感はいったい何なのか?と。

ともあれ、彼らがこのアルバムを創る際の指針にしたというエレクトリック・マイルスの問題作『On The Corner』(1972)と同様に、ここにはそれが何処からやって来たのか当の本人たちにもわからないが、とにかくそう鳴らさずにはいられないようなナニモノかが存在している。

かの大友良英はそれを「得体の知れないノイズ」と呼んだ。スタジオボイス2005年5月号の特集「ポスト・ジャズのサウンド・テクスチュア」において、ポップ・グループのシングル「We Are All Prostitutes」(現在では『For How Much Longer ~』に収録)に出会ったときのショックを、氏は次のように告白しています。

こいつを聴いたときが人生一番の衝撃だった。25年前のことだ。奥行きのない歪みまくったチープな録音。金にまみれた明るいデジタルな80年代の幕開けの中で、オレにはこの暗い音楽が希望にすら見えた。この音楽がなければオレはもしかしたら無差別殺人者か性犯罪者、良くてカルト信者に成り下がっていただろう。でも、幸いオレが手にしたのは宗教でもサリンでもなく、ジャズですらなく、得体の知れないノイズだったのだ。

スタジオボイス2005年5月号

現代の音楽最前線をリードし続けるその人をして「人生一番の衝撃」などと言わしめたのがポップ・グループであったとは全く意外だった(氏もこれを聴いたとき爆笑したに違いない)。それにも増して「得体の知れないノイズ」という簡潔なフレーズは自分の中で日ごとに存在感を増してゆき、近ごろでは「音楽=得体の知れないノイズ」ということで別に構わないじゃないか、と思いつつあります。

どんな音楽でも多かれ少なかれ得体の知れなさを隠し持っている。それがどのくらい深いところに潜むのか?あるいはどのような回路を通って私たちにノイズとして伝わるのか?そこに興味がある。むしろ、そこにしか興味がないのかも知れません。

ところてんの領分

心もとなさ、おぼつかなさを足場とすることで初めて駆動する音楽もある。そこに有り金を全て賭ける。アルバム制作時点ですでに分裂寸前だったバンドはそれでも、バランスを欠きながら独自のサウンドを立ち上げることに心血を注いでいる。そして、音楽の本質が思いがけず顔を覗かせるのは往々にしてそんなときなのだ。音楽の未明の、深い地層に不可解な音の塊が蠢いている。そこに何がしかの意味性がべっとりと張り付いてしまう前に、批評家の言葉で切り分けられてしまう前に、音楽の底の底に漂う得体の知れなさを今すぐ救い出さなくてならない。このアルバムに充満している性急さはそこからきているのです。

ダブがどうの、ファンクがどうした、政治的なメッセージが云々、そのようなものをすべて一旦、後回しにして表題曲「How Much Longer」を聴いてみる。音符のすき間を埋め尽くす粘着質の不純物が、ブルース・スミスのしなるようなスティックの一振りでグイッと押し出され、スピーカーの奥からところてんのように漏れ出してくるのを感じないだろうか。M・スチュワートの悶えもその中に練り込まれている。ところてんに動機も根拠も求めようはない。音楽が鳴る、その背景に明確な根拠はない、そのような成り立ちのものに惹かれる。

音楽以前の未明のグルーヴに翻弄される開放感。彼らが奏でるねじ切れたファンク・サウンドは、マッチョ性とは遠いところでふいに顔を出す。それはやがて私たちのナマの生活圏にも溢れ出し、そこに混沌を積み増す。

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