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映画『影裏』-おらほの街での「愛と喪失」、そして「記憶される時間」

「ご当地映画」というものは、得てしてただの観光映画になりがちなところがある。いかに魅力的な風景があっても、そこで語られる物語が面白くなければ「ふーん…」となってしまう。
私が香港映画や台湾映画を好きなのは、物語の展開とロケーションのバランスがちょうどよく、ロケ撮影では観光だけじゃわからない街の別の顔も見せてくれるので、観たらその場所に行きたくなるからである。そして行った先でロケ地巡りをしながらも、続けて通うことによって街の変化を感じて考える。映画も旅も好きな身としては、そんな楽しみがある。
近年、設定では東京と言いながらも実際は千葉や栃木や福岡で撮影される映画が多い。それは東京都内でのロケ撮影が容易ではないというところで、致し方ない。その一方で、舞台を地方に設定して実在の地名を前面に出し、評価の高い監督がスターを起用して作り上げる映画も見られるようになった。今年の公開作で言えば岩井俊二監督の『ラストレター』が宮城、今泉力哉監督の『his』が岐阜を舞台にしており、いずれもただの観光映画では終わらず、物語性も高く監督の個性も出ている上質な作品に仕上がっていた。

岩手県を舞台にした映画やドラマはこれまでもたくさん作られてきたが、いくら地元愛があろうとも、それらがすべて好きというわけではない。地元でロケを敢行しても、物語に乗れなければ愛着が持てない。例えばNHK連続テレビ小説(朝ドラ)でいうと、岩手県はこれまで盛岡を舞台とした『どんど晴れ』(2007)と久慈でロケを行った『あまちゃん』(2013)の二作で取り上げられたが、物語の面白さでは断然後者が前者に勝った。『あまちゃん』に関しては、それに場所やキャラに対しての愛も大きかったので、なおさらハマったのであった。

さて、そこで『影裏』である。
『るろうに剣心』第1作から8年、初監督作品の『ハゲタカ』からも11年が経ち、今や映画監督としても中堅の域に入ってきた盛岡出身の大友啓史監督の新作は、3年前に芥川賞を受賞した沼田真佑氏の同名小説を原作に、全編岩手ロケを敢行した、直球の文字通りな「ご当地映画」である。
なお、過去の大友作品では2017年の『3月のライオン(後編)』で盛岡ロケを敢行済み。これは原作でも盛岡で対局する場面があるためだが、対局場面は盛岡市内の南昌荘に変更されている。

↑この映画は地元のローカル局テレビ岩手の開局50周年記念作品のため、特設サイトもあり。市内在住の漫画家、田中美菜子さんによるロケ体験記が面白いですよ。

これまで『るろうに剣心』や『3月のライオン』などの漫画原作の映像化に定評があり、規模も大きく派手な作品を多く手掛けてきた印象のある監督なので、それを念頭にこの映画を観ると、『ハゲタカ』『龍馬伝』などのTVドラマ時代から観ている人でも、本当に同じ人が作ったのか!と思われるであろう。確かにそうだ。大きな物語のうねりはない。ミステリーと喧伝されるほどの謎はない。そして、語りもこれまでの作品と比べると圧倒的に地味だ。
しかし、派手さばかりが大友作品の売りではない。彼はTV時代から男同士の熱く濃密なぶつかり合いをスリリングに描くことを得意としている。この点においての美学は健在であり、岩手にやってきた30歳のサラリーマンである主人公の今野(綾野剛)と、彼と同世代の日浅(松田龍平)との友情とその瓦解が描かれたこの映画では、それが見事に、かつ静かに炸裂していた。

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これは岩手に暮らす男の愛と喪失の物語。
わずか70ページくらい(文庫版)の物語である原作だが、そこには雄大で美しい自然との触れ合いと、人間の抱く複雑さや心の中に潜む闇の深さを並列して描かれている。一方、映画ではこの原作特有の「間」に盛岡の街の姿や光と影を加え、それらを役者たちと同格に捉えている。
特に、主人公・今野の暮らしぶりは冒頭で非常に丁寧に描かれる。岩手の外から来た彼が、まだ開けていない段ボールに囲まれて目覚める姿には、不慣れな地で生き始めたばかりの頼りなさと繊細さを窺える。
そんな彼を強く惹きつける日浅は、ふらりと現れてはふらりと去っていく、まるで風の又三郎の様に描かれてはいるが、その飄々とした鮮やかさと共に、後半でも語られる闇を奥底に抱いた危険さも感じる。そんな彼に今野が惚れるのも十分わかる。この二人の関係は危うさの上に立っており、原作通りに彼らが疎遠になり、やがて決裂していく展開を思うときりきり心は痛むのだが、それをわかっていてもなお、どこかホッとさせられる箇所も多かった。綾野&龍平コンビはこの二人に見事にハマっていて、原作の落ち着いた感じよりほんの少し若さと新鮮さを感じる。
芥川賞選考時に少し話題になっていた今野のセクシュアリティは、原作より明確に描かれていたが、日本でもゲイを主人公とした映像作品が増えてきていて馴染んできたこともあり、違和感も強引さも感じなかった。セクシュアリティに触れそうになった場面のその後もさらりと処理したのはよかった。
原作では電話越しのみであったが、盛岡のホテルに現れる和哉の場面も鮮烈でこれまた印象深い。

ほぼ原作通りであるが、物語の手触りは全然違う。友にそそぐ愛もその喪失も、その間に挿入される震災というリアリティも同じなのだが、それでも受け取るものは違う。それは大友監督が原作をどう読み取り、その精神を生かしながら映像化した試みの結果であるのだが、それに加えられているのが、2000年代から2010年代の盛岡の記憶である。映画は2009年から始まり2014年まで描かれるが、撮影した2018年の夏がその年代を描けるぎりぎりの線だったとも考えられる。東京五輪を控えて確実に変わっていく(すでに大きく変わっている)この国で、彼の故郷であるこの街で流れる時間を記録することをこの映画では目指したという。
そのことを聞いてふと浮かんだのが、王家衛(ウォン・カーウァイ)が香港返還直前に作った3本の映画のこと。それはもちろん『恋する惑星』『天使の涙』そして『ブエノスアイレス』なのだが、これらの作品は『欲望の翼』以降から現在に至るまで、過去を舞台にすることが多い彼の作品群の中では珍しく同時代を取り上げたものである。それらの作品もまた、激動する時代の中で、街と時代の時間を記録したものであった、と思い当たった。(特にブエノスは香港から遠く離れた都市を舞台にしながらも、明らかに香港返還を目前に撮らねばならないという意識が働いていたこともあったので、より一層その傾向があったのかもしれない)ついでに言えば、今回は俳優の表現力を重んじるという監督の演出法がかなり重視され、台本1ページに台詞がほとんど書かれていないという場面もあったとか。そこでは龍平も綾野もあれこれ考えて演じていったそうで、このように場面ごとの設定で台本に頼らないで撮るというのは、香港映画にも通じるものだと思っている。(唐突な結びつけに思えるだろうが、これを書いている私自身が香港映画好きであり、大友作品にはるろけんを例に挙げずとも香港映画的な雰囲気を感じ取っているからこう言ってしまうのである。閑話休題)

大きな声でテーマが叫ばれたり、説明的な台詞や場面が多い最近のメジャーな日本映画は個人的には好きではない。でもこの作品はそれらとは一線を画すかのような作りになっているし、相当意識して作られているのがわかる。メッセージは声高には叫ばれていないが、黙っているわけでもなく、やっと聞き取ることができるくらいの微かな声で耳許で囁かれているかのようだ。
もちろんるろけんは楽しいし、この夏の完結編二部作を楽しみにしている身として、ハイテンションかつ高カロリーな映画も楽しいけど、そればかりじゃ観ていて疲れる。自分自身がもういい歳であるからじゃないけど、ゆったりして余韻のある映画が観たかった。
またこれは、地元からしたらご当地映画ではあるけど、思ったほど名所や観光地も推してはいないし(せいぜいさんさ踊りくらい)、自分の見たことのない場所や川が多く映ることが新鮮で、街の新たな顔が見えるようだった。

尊敬する地元出身の映画監督が、地元を舞台にした文芸作品を作ってくれた。ただそれだけのことであるが、やはり地元民としてはいろいろ思い入れも生まれてしまう。そこでどうしても客観的にはなれなかったが、そこはどうか許してほしい。感想になってしまっているので、いずれもう少し冷静になったところで、批評的な文章も改めて書いてみたい。
そして、岩手以外に住む人が観たこの映画の感想も聞いてみたいところである。

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