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親友が死ぬということ


親友ってなんだよ、と思っていました。
子供の頃はよく、あなたと私は親友ね、なんて
口約束で言い合ったものだけど
大人になった今、なんだそれ、と思ってしまう自分がいます。

実体のない口約束。
婚姻届という紙媒体がある夫婦関係の方がまだ信頼がおける。
「親友」という定義がよくわからない。
そう思っていた、いや、今も思っている私の、


親友が2024年1月21日、この世を旅立ちました。


享年31歳。
誕生日を迎えてわずか18日後。
これを歳を重ねたと言っていいのか。

これほど【絶望】という感覚の
実態を感じ得る悲しい出来事が
私の人生にとってほぼ初めてで
自分の悲しいの気持ちに戸惑っている、
そんな翌日の22日。


この気持ちを、このまま冷凍保存したいくらい
悲しい気持ちも寂しい気持ちも
この鮮度のまま忘れないでいたいから
書き留めておくことにしました。




出会い


記録として書き記します。

彼女との出会いは仕事で。
亡くなった彼女のことをここからYとします。

Yはウエディングプランナーで
私は結婚式の映像を作る仕事をしていました。

第一印象は、怖い、だった(笑)
でもそれは当たり前で、プランナーは結婚式当日
裏では気が立っている人が多い、と思う。(ゴメンナサイ笑)
気にすること、気を回すことが山ほどある仕事だから
裏でまで多分気を配ってられないんだと思います。

新入社員だった私はプランナーという職種の人間と
仲良くなれる気がしてませんでした(笑)


ただ元々Yと仲の良かった、同じ会社の先輩に紹介されて
まあ飲みに行きますかなんて社交辞令に近いような約束をして
でもそこから、他のプランナーや司会者、写真カメラマンなど
結婚式に携わるいろんな職種の人と飲みにいくようになり
気づけば気の合う仲間同士での頻度が高くなっていきました。

自然とメンバーが決まってきて
それが「酒クズ」という名前のグループになって(笑)
そこにはYも当然のようにいました。
家でも飲んだし、旅行もしたし
福岡市内の居酒屋は本当に飲み歩いたと思います。


Yは可愛い顔して、酒ヤクザで(笑)
酔うとみんなに飲ませたがる癖があり
酒が弱い私は1,2杯飲んだあと、こっそりウーロン茶を飲んで
酔っ払いたちに付き合うのが定番だったんですが
Yに見つかると飲まされるし、飲んでないと怒られるし
そりゃもう大変でした(笑)

夜中までよく一緒にいて、日付超えるなんて当たり前で
帰るタイミングは毎回見失っていました。
私が長く付き合っていた元彼と別れた時なんかは
友達の家にみんなで寝泊まりして
そこからみんなで出勤したりして(笑)


とにかく、福岡に来て6年目の
私の思い出の大半に
Yはいます。


親友、になったわけ


私もYも、どちらかというと意志がはっきりとしていて
間違っていると思ったことは、相手に伝えてしまうタイプでした。

特にYは正義感が強くて、本人以上に
その人の話に怒ったり泣いたり
まっすぐぶつかれるひと。


私はなるべく公平に物事が見れるように
いつも俯瞰で見ようとしがちで
「なんでそんなドライな反応なんよ!」と
熱の昂ったYによく怒られたりしました(笑)

それでいて間違ってると思うと、
私も言葉を選ばずについストレートに伝えてしまう。
そこは自分としても良くないところだとは思っていて、
言葉選びに悩む日も少なくはなかったけど
そういうところの話も、
Yとだけは、本当によくしたなぁと思います。


「間違っている」の感覚も「正しい」の感覚も多分一番似ていて
ただアプローチがお互い違った。
その違ったアプローチも、Yとなら尊重しあえたし
「それでいいと思う」とお互いに素直に言い合えました。

もちろん間違っていることを言っていると思った時は
Yだからこそ遠慮なく
「いや、おかしいやろ」と伝えられたし
寝坊癖とか、連絡が遅くてルーズなところとか
呆れるようなところもあったけど(笑)
「大人になって、こんなに尊重して且つ共鳴し合える友達に
出会えるとは思っていなかった」
と、二人で飲みながら何度も言い合うくらい
私にとっては、Yは
そういう、貴重な存在でした。


たまたま結婚するタイミングが近くて
どうせならと言うことで、入籍日も同じにしました。
私たちは特に日付けにこだわりがなかったし
一緒なら毎年お互いのことを思い出して
おめでとうと言い合えるね。
一緒にお祝いもできるよね。
そんな気持ちで同じ日にしました。
家族、ではないけど
似たような繋がりができたような気がして
もう言葉にしなくても
そこには当たり前に未来の約束が常に存在するような
そんな幸福感がありました。


いろんな事情があって、Yが福岡から東京に
引っ越さなきゃいけなくなった時
Yに私が送った言葉。

プランナーしてるときは
おもてなしと心くばりに長けていて
こんなにウエディングプランナーという職に
向いてる人はいないと思ったし
損得なしのホスピタリティーマインドは
100%私にはないところ。
口調は荒くなるけど正義感が強くて人情に熱い。
東京出身じゃないくせに江戸っ子みたいな性格で
破天荒な父とぶっ飛んだ母とかっこいいお姉さんとも
仲良くさせてもらえて、一緒にスナックも行った(なぜ)

ちゃんと、よく、
「気持ちの話」をしたのは
Yがもしかしたら一番多いかもね。

送別会の時、たくさんの人が集まってくれたでしょ!
福岡で愛されてるよ!!
新しい環境だからどうとかは特に心配してないけど
一緒に過ごした福岡生活くらい、
これからの生活も笑って過ごせるといいね!!!

本当にこういう人だった。

仕事の時、一緒に働くのが楽しくて
Yがプランナーとしてつく案件に入れた時は
「映像は私に任せろ」という気持ちだったし
Y自身も「今日あんたか!なら安心だね!」と笑ってくれて
お互い背中を預けながら、一緒に一つのものを
作り上げていくあの感覚は
今思えば、本当にとても幸せなことだったのかもしれない。
しかも仕事で、大人になってまで
味わえる感覚だとは思っていませんでした。

Yの親御さんが福岡に遊びに来た時は
飲みに連れて行ってもらって
自分の娘も結婚だっていうのに
私たちの結婚さえ喜んでくださって
結婚式当日は祝電までいただきました。


私が仲間内の一人と喧嘩した時も
最初に相談するのはYだったし
Yも双方の気持ちを理解した上で
私の気持ちにもちゃんと寄り添ってくれた。
Yならわかってくれるという安心感がそこにあったから
当たり前に話せたんだなと今なら思います。

「これからの生活も笑って過ごせるといいね!」
と言った言葉は
そのまま、その通り
本当にこの先の毎日も、幸せに過ごせる日々であるようにと
願って言った言葉だったのに。



Yが東京に行くからと、みんなでおこなった送別会用に
私は動画を作りました。
いろんな人からの寄せ書きと、今までの写真を載せて。
Yは何度も見て泣いていました。
帰ってからも、ラインで

○○、ありがとう。
あいしてるぞ。笑

と、恥ずかしい言葉を送ってきてた(笑)
照れくさいから返事はしなかったけど、
その動画には、みんなの分と自分の持てる分の
Yに対するたくさんの愛情を込めるだけ込めた自信はあります。

空港まで見送って、飛行機に乗ったYが
飛ぶ直前に送ってきたラインでは、

○○は、福岡でできた
親友やわ
いつも理解してくれてありがと!

これが来たあの時、私は
「また何小っ恥ずかしいこと言うてんねん」と思って
照れ臭くて「親友」という、同じ言葉では返せなかった。
ただそれでも、
代用できる、私の知る限りの日本語で
Yに「同じだよ」という気持ちを伝えました。


今更だけど、今になって思えば、だけど
言えば良かったな、と思います。
「親友」だったらしいね、私たち。
Yが言ったから、親友だったんだと思います。
「だった」ではないか。
今も変わらずに。




病気を知る


東京に行ってすぐ、LINEの返信が遅くなったなと思いました。
でも、まあ新しい仕事をしているわけだし
新しい環境だし、そちらに適応していくことの方が大切だろうから
しょうがないよな、くらいに思っていました。


Yのいない福岡の仲間内で久々に集まった時に
その写真を、Yのアカウントをタグ付けして
インスタに投稿したことがありました。
その投稿にYから突然DMが来て
「今入院してるからパワーをおくれ」と。


意味がわからなくて、すぐYの旦那に連絡をしました。
「本当は誰にも言わないって言ってたのに、
なんで○○には連絡したんだろう」
とYの旦那も戸惑ってたけど
Yに許可をもらい、全ての事情を旦那経由で聞きました。


原発不明癌という、癌の元凶がわからない
というタイプの癌。
発覚時、腹水が溜まりすぎてすでに危ない状態で
あれよあれよという間にICUに入ってしまったこと。

なんとか持ち直したけど
医師も驚く速度で進行していること。

すでに転移も数箇所あること。

元凶がわからないとどの抗がん剤を使えばいいか
判断しかねるから、おおよそで見定めて
進めていくしかないこと。

それが本当に効き目があるかどうかわからないこと。


車の音や自転車の音が聞こえていたから
おそらく道端で電話をかけてきてくれていたYの旦那は
人目があるだろうに
嗚咽しながら泣きじゃくって、私に伝えてくれました。

「Yは病名は知ってる。けど現状どういう状態かは知らない。
言えるわけがない。だから俺はずっと嘘をつき続けてる。
○○にも背負わせてしまう。ごめん。」

と、大の大人の男が
オエオエ泣いていうもんだから
私はいてもたってもいられなくなって
そのあとすぐ、東京に弾丸で見舞いに行きました。

会わなきゃ、と思いました。
自分でも怖いくらいの焦燥感で。


お見舞いに行って会ったYは
見てわかるくらい痩せていたし
腕は痛々しいくらい痣がたくさんあって
多分たくさん注射を刺されたんだろうなって
一発でわかるような腕で
目にはハキがなく虚ろで
口の中に炎症で口内炎が多量にできていたらしく
呂律もあまり回ってなかったけど
約1時間。
(ほんとは面会時間15分なのに)

何を話したかは正直覚えてないけど
ただ急に潮らしく、「大丈夫?」と気遣うのも
なんか違う気がして
なるべくいつも通り
「まじびっくりしたわ、ふざけんなよ(笑)」
なんて笑いながら

私を見て、一生懸命に話をしているYを
なんとか焼き付けておこうと思って
努めて明るく相槌を打ちながら
ものすごくジッと見続けました。


そんな状態でもYは
「こんなにすぐ駆けつけてくれて、
次○○に何かあったら私が行くからね」
なんて言っていました。
いやまず自分のこと考えろよ、と思ったけど
それ言えんのすげーとも思いました。

と、同時に
ここに来たかったのは多分私だけじゃない
とも思いました。
Yも、Yの旦那も
「言霊になりそうで怖いから」
「病気を受け入れる気がして嫌だから」
そう言って頑なに
他の仲間内に話すことを拒みました。

気持ちはわかる。わかるけど
多分私が【知らない方】だったら
心底腹が立つだろうと思いました。
「こんなこと言いたくないけど
万が一がそこまで差し迫ってるのに
他のみんなだって絶対すぐに駆けつけるのに!」
という台詞が、喉まで迫り上がってきてたけど
言うのをやめました。

今きっと、二人とも
気持ちの面でギリギリに立ってるんだろうと思うから
怖いと言うなら
Yの、細すぎる腕と、細すぎる首が
言うな、と言うのなら
それでも!なんて言う権利は
私なんかにはないなと思いました。


入院で必要そうなものもたくさん買って行って
元気が出るようにと
前日に泣くのを我慢して選んだものを
机に並べて、たくさん笑って
最後手を触って、みんなで写真を撮って別れました。


手がめちゃくちゃ冷たくて
触ったら壊れそうで怖くて
でも後悔したくなくて触った。


病室を出て
一緒にお見舞いに行った自分の旦那と
痩せてたね、
でも顔見れて良かったね、
なんてことを
ポツリポツリと話しながら
その日のうちに福岡に戻りました。


それからすぐ、Yの容体が悪くなったという知らせが届きました。
案の定、抗がん剤は効果が見られなかったこと。
最後の頼みの綱だという治療法に踏み切る、という報告を受けました。
ただこれも本来であれば、ある程度免疫力のある状態で
使用しないと元来の効果が発揮されないかも知れないこと。
これがダメだったら、頑張るのをやめて
最後を迎える準備をした方がいい
と医者に言われたということ。

それがおおよそいつ頃になるかということも。
「二人が忙しいの知ってるから、これぐらいの日にちで
その時は、絶対二人に来てほしいから
仕事の調節、しといてくれるかな」
とYの旦那に泣き笑いながら
言われてしまいました。


私たち夫婦は、
なんか準備するの嫌だね
と言いながら
クローゼットから喪服を引っ張り出しました。



Yという人


Yの旦那から連絡がしばらくなく、
逆に連絡がないということが
私の安心材料になりかけていた頃でした。


朝起きたら着信履歴がありました。
Yの旦那から。

もうわかっていました。
「電話をかけていい?」と断りを絶対に入れてくるYの旦那が
なんの前置きも無しに朝からかけてくる電話の内容なんて
むしろ決まりきっていました。


それでも怖くて、折り返さずに
「どうした?」
とだけメッセージを返しました。
「夜電話するね」
と言われて、その日怖いねと言いながら
自分の旦那とこたつにくるまって電話を待ちました。


「Yは今朝ね、旅立ったよ」


涙とため息が一緒に出たそのYの旦那の言葉に
なんて返せばいいかわからなくて
「そうか」と言いました。

「悔しいね」と何度も呟くYの旦那の泣き声を聞いて
私はまだ実感が湧かなくて
頭を抱えて壁を見ていました。

「え、ほんと?」と言うと
「全部嘘だったら、夢だったらいいね」と言われました。

「お通夜とお葬式なんだけど」と続けて言われた時に
急に悲しくなって、涙が止まらなくなりました。


あれが本当に最後になってしまったのか
あぁ、もういないんだ
ラインしても返ってこない?
電話をしてももう出ない?
ほんとに?

全部ぐるぐる頭の中を駆け回って
電話を切ってすぐ、自分の旦那に報告して
二人で抱き合ってわんわん泣きました。
やだ〜、と言いながら
旦那の肩がぐしょぐしょになるまで泣きました。


それから仲間内の他のメンバーも
続けて報告を受けるだろうから、
みんな一人でいたらきついだろうからと
何人かに声をかけて飲みに行きました。

合流して、献杯をして
Yの話をしながら
泣いたり、笑ったり、また泣いたり
波のように繰り返して
みんなで飲みました。


「いろんな人に、Yは最近大丈夫なの?って聞かれるよね」
と誰かが言うと
「そうだよね。これ次聞かれたらなんて答えればいいのかな」
とまた別の誰か。
「Yとの写真がたくさんありすぎて携帯が”あの日の思い出”って
Yのこと見せてくる」
と誰か。
「動画がありすぎてもう絶対今開けない」
とまた誰か。

私たち仲間内の中でも、多分誰かと
ペアでいる時間が長かったのがY。
だからみんなのそれぞれの思い出ツールに
一番たくさんいるのがY。

私たちだけじゃなく、とにかくこの界隈に顔が広くて
いろんな人から心配されるY。


話しながら、Yってこういう人だよな
と思いました。
Yのまっすぐさとか、ひたむきさとか
多分嫌いな人、いなかったんじゃないかな。
誰とでも上手くやれてたYをちょっと尊敬もしてたよ。


そういえば、Yにこんなことも言われたことがあります。

私は人によって態度を変えるし
それが大人になって悪いことだとは思わないけど、
○○は誰に対しても変わらない
それで躓いて○○は悩んだりするかもしれないけど
でもそういう○○に私は安心するよ

忘れられない言葉だし、
絶対変わらないでいてやろうと思った
変わらなくていいか、と楽になった
そんなことも私は言ってもらっていたなと
思い出しました。


終われない


この記事、始めたはいいけど
終わり方がわかりません。

Y、お前もういないってまじ?
ぜんっぜん受け入れられないけど。


私たちがお前なしでどう集まればいいかとか
お前の旦那はこれからどう生きていくかとか
私たちは問題が山積みなわけだよ。


でもお前が一番意味わかんないよな。
多分「は?」って言ってる間にあの世だよな。
未練たらたらでまだこっち系?

どっちでもいいけど
お前の旦那だけは、幸せになれるように
導いてあげてほしいな。



全然お前がいいけどな。
お前の旦那の隣はそりゃお前がいいし
私たちとバカみたいに酒飲むのはお前がいいよ。


一生お前のことを思い出しながら乾杯するよ。
「思い出しながら」とかいう言い回しもほんとは嫌だよ。


全然終わりじゃないよこの記事。
終わり方がわかんないもん。
終わりにしたくないんだよ。


結婚式は挙式にも参加してくれてたから
一応自分の母親にも報告をしたけど
母親からは「まだ若いのに」と言われた。
そうだよ、全然まだ若いよ。

「代わりに、とは言わんけど○○は
一生懸命生きないとね」と言われた。
代わりとかそういうことじゃない。
全然わかってない、そんなところまで
まだ行き着いてない。
それにYの人生はYのものだし
当たり前に続くと思っていたそれを
代わりにとかそんなの、全然違う。
一緒に、がよかったんだよ。

「みんなでたくさん思い出してあげなね」
そういうことじゃない!思い出すとかじゃない!
いっつも一緒にいたんだから
思い出すとかじゃなくて
Mさんと、Sと、Mと、Y先輩と、W先輩と、Uちゃんと
それと私たち夫婦と
YとYの旦那で
酒クズっていう仲間内なんだよ。
変わんないのよそれはずっと。
忘れるとか、思い出すとか
そういうのじゃないのよ!


という母からの弔いと慰めの言葉に
異常に腹が立ったりして。

全然終わらせられない。
どうしたらいいんだ。
Y、お前に腹立ってきたわ。
早すぎ。


【2024.01.31追加】通夜と葬儀。


2024年1月28日に通夜。
翌日30日に葬儀・告別式。
参加してきました。


前日の27日は誕生日だったんだけど
人生で一番楽しくない誕生日だった。笑
それでも旦那がお花買ってきてくれたり、プレゼントくれたり
わざと明るくちゃんと祝ってくれたんだけどね。


通夜の日の朝、旦那と飛行機に乗って
東京で友達と合流して
それまであんまり考えないようにしてて
でもホテルに一旦着いて、喪服に着替えてる時に
めちゃくちゃ怖くなってきて
行きたくなくなってきて
「やだなぁ」って笑って言ったけど
旦那もため息ばっかりで
全然答えてくれなくて。


最寄りまで行って、バスに乗って
会場に着いたら
「Y、通夜・葬儀告別式会場」
みたいな大きな看板に
息を飲んだ。
この息を飲んだ、って表現小説とかでよく使われるけど
マジであるんだって思った。


会場がある施設内の2Fにエレベーターで上がって
芳名帳に記入して、香典を渡して
そしたらYのお姉さんがいて。

上記にも書いたかもだけど
お姉さんとはYが生きてる時に
福岡にお母さんと遊びに来てたことがあって
その時一緒に飲んだことあるから知ってて。
お母さんとお姉さんから結婚式の時祝電ももらってたから。

お姉さん見た瞬間
もうなんかがプチンって切れちゃって
声出して泣いちゃって。笑
でもその時まだお姉さん全然泣いてなくて
それがまた泣けてさ。笑
お姉さん、私や友達のことハグしてくれて
「辛いよね」って手握ってくれて
そんなのお姉さんの方が辛いに決まってるのに
それにまた泣けて。


始まるまで待ってたら
続々いろんな人が来て。
福岡で仕事で一緒だった人たちとか
多分大学の友人なんだろうって人とか
上司も部下も、信じられないくらい列ができてて
最後の方に並んで
並んでる間みんなで黙って前だけ見てた。

前の達筆な、なんて書いてあるかわかんない文字見て
それだけなのにもうどうしようもなく涙が出てきて
止められなくって
横に並んだ旦那も友達もみんなそうで。

順番が来て、入る前怖すぎて友達が手握ってきたんだけど
その子よくくっついてくる子で
いつもなら振り払うんだけどさ。笑
今回ばっかりは私も握っちゃって。



会場入って、遺影があって
その遺影ね、私が撮った写真だったんよ。笑
遺影になると思ってなかったけど
事前にYの旦那から、その写真くれって連絡はあって。
まあ受付付近に使うんだろうなと思ってたら
まさかの遺影で。
YとYの旦那の前撮りの時の写真で
前撮りのほんとのカメラマンが撮ったやつは
顔が緊張してて固くていつものYじゃないって
家族が却下したらしくて。笑
私がただ茶化しながらiPhoneで撮ったやつなのに。笑


お焼香よくわかんなくて、ちょっと戸惑って
振り返ってお辞儀したら
Yの旦那と、Yのパパとママとお姉ちゃんとお兄さんが目に入って
Yの旦那は全く泣かずにまっすぐ座ってるし
Yのパパは私たち見て泣いちゃって
そのままYのパパやママのところに近づいてったら
Yのパパが「ありがとうなぁ、Yの分も幸せになぁ」って。
Yのママも泣いてなくて
むしろぐしゃぐしゃになってる私たちのほっぺたを
両手で包んでくれた。
お姉さんは目が合うたびにちょっと笑うのよ。笑


一通りお焼香すんで、棺桶の中のYと対面ってなって。
怖すぎて足すくんだ。
足がすくむって表現も体感したことなかったけど
こういうことかぁって。


亡くなってから1週間あったんですよ。
私たちを待っててくれて。
Yの旦那がそういう日にちを設定してくれて。
だから流石にね、生きてる時とかなり顔変わっちゃってて。
Yじゃないみたいで。
信じられない、が棺桶の中の顔見たって
強くなるばっかりだったけど
でもYの周りに添えられてる思い出の品が
ほとんど全部知ってるものばっかりで
嬉しいのと悲しいのと
寂しいのとで
気持ちぐっちゃぐちゃになった。

怖すぎて顔見れるか不安だったんだけど
閉じそうな目を自力でこじ開けて
ちゃんと見て、よかった。

他の参列者はあまりにも変わってるから
Yじゃなさすぎて、って話す人いっぱいいたけど
確かに違ったけど
でも出っ歯なとことか、半目で寝てるとことか
Yだなぁと思うとこばっかで
違くなっちゃったのも、頑張ったんだなぁと思って
知らない人が見たら怖い見た目なのかもしれないけど
私たちからしたらね、愛おしかったよ。笑
Yだもん。
みんなと会えたねえって思ったよ。


そのあと他の一般参列者がほとんど帰って
でも私たちは残ってて。
親族だけでご飯食べてるところに
Yのパパが「こいよぉ!」って呼んでくれて
Yの親族に混じって酒飲んだ。笑
まだ会ったことなかった他の兄弟たちも
甥っ子姪っ子たちも見て。
仲良くなって思い出とか話して
酒ガバガバ注がれて。笑
さすが酒ヤクザのYの家族だなと思ったよ。
またご実家にも遊びに行きますねって
何回も約束して
これからも変わらずにこの縁が続いていけばいいなと思った。
Yがくれたものだからね、大切にしないとね。



次の日葬儀・告別式。
バスが混みそうな気がして、朝早めに行って
そしたらYの旦那が呼んでくれて
棺桶の中空いてて
「これが最後だから、触ってあげて」って。


顔見るより怖くて。
勇気なくて、私の旦那が先に触ったのよ。
そしたら「あっ、」って声漏らすの。泣きながら。
余談だけど、私の旦那感情薄めの人で
普段ほぼ泣かないし、まして人前でとか絶対泣かない人で。
訃報聞いた時も泣きたくないって
私に見せてくれなかったのに
通夜からボロボロ泣いてて。
その手触った時も、「あっ、」って声と一緒に泣いてて
もうそんなの見たら無理で。
手震えちゃって触れなくて
そしたら右から旦那が、左から友達が押してきて。笑
引っ張ってきて、促されて、触った。


ほんっとに、冷たいのね。
保冷剤かよってくらい冷たくて。
ぷよってしてて。
全然やっぱり感触は違った。


お見舞いに行った時
バイバイする時触った手も冷たかったけど
ちょっと乾燥してて、でも肌って感触だったのに
今回は全然違った。
忘れられない気がする。
あの冷たさも、手の感触も。


そっからみんなで周り囲んで
Yの旦那も含めて、中に入ってる思い出の品について
「あーこれはあの時のだ!」とか
「これあれじゃん!」とか言って
泣きながら話して。
Yの旦那も「さすがだね、流石にみんな知ってるね」
とか言って笑ってて。笑


「Yマジで寝坊魔だったからな」とか
「アイツあん時さー」とか言って
ちょっとYのこといじり出したりして。
「棺桶の周りでこんな悪口言われて可哀想」とか言って笑って。


何回も、何回も何回も
棺桶の中の顔と、遺影の笑顔と見比べて
何回も何回も目に焼き付けたくて
何回も見た。
それでも、もう薄れていきそう。怖い。
忘れたくないねえ、忘れたくないよ。
最後の姿も、Yは「こんな可愛くないの嫌だ」っていうかもだけど
私はね、私たちはね、忘れたくないよ。
意地でも覚えててやるわ。笑


そのあと、通夜は仕事で来れなかった
他の酒クズのメンバーも全員集合した。
その後から来たメンバーの背中さすりながら
また棺桶の中見に行って。
その遅れてきた人たち、先輩なんだけどね。笑
先輩だけど、何回も何回も背中さすって
何回見てもきついなー、とか言いながら私もまた泣いて。


葬儀、お坊さんがなんか読むやつ。笑
会場内で聞けるの多分家族だけだったんだけど
なんか私たちだけ入れてもらっちゃって
ちゃんと聞いた。

後ろに座ってた多分いとこ?かなんかの親戚の人たちが
「最初普通にしてたんだけど、後ろのお友達たちが
すごい泣いてるからもらい泣きしちゃって、、、」
みたいな話してるのも後で聞こえちゃったくらいみんな泣いてた。笑

家族は毅然としてるのに
私たちだけ泣きすぎかなあとも思ったけど
止まらないんだもんなあ、あれは。無理だよ。笑


その後棺にお花をね、入れる作業して
Yの好きなピンクにして
顔の近くに添えて。
「またな」って言いたかったけど
苦しくて言えなくて


その後みんなで棺桶の周り囲む形になって。
Yの旦那の家の風習?で
葬儀や結婚式で歌を歌うらしいんだけど。
いつもは葬儀は葬儀用の歌があるらしいんだけど
今回は”結婚式の歌を"って言って
Yの旦那のお姉さんが歌ってて
「そうか〜結婚式な〜」って思ったらまた泣けて。

そのあと、喪主の挨拶聞いて
また泣けて。
棺桶の蓋閉める前に家族がお別れ言ってたんだけど
Yのお姉さんが、それまで泣いてなくて
毅然としてたのに
「最後のお願いだから目を開けてよ」って言ってて
あーもう無理だーってなって。笑
Yのお父さんが
「こんなに来てくれたぞ。よかったなー頑張ったなー」って。
Yの旦那は何にも言わないで
Yの頭撫でながら涙ポタポタこぼしてた。


閉める直前、Yの旦那がしゃがんで
Yに最後になんか言ってたけど
聞こえなかった。
聞こえなくていいけど
Yよかったね。
Y、旦那のこと大好きだもんなあ。笑
愛されてんねえ、あんた。よかったね。って
その姿見て思った。


出棺の時に、Yの旦那が酒クズの男たちだけを
召集してくれて
みんなで棺桶担いで運ばせてくれて。
なんかそれ見たら
みんなに担がれて、笑ってるYが想像できちゃって
ほんとに寂しくなって
人生で一番声出して泣いた。
俯いて、息上手くできないくらい泣いて
そしたら先輩が私の頭に泣きながら顔乗せてきて。


霊柩車に乗る時に
「またね」って絞り出して言った。
またね、だよほんとに
また会おうな、マジで。



私が声かけてきてくれた後輩とかに
その後挨拶して
その後輩も、私とYが仲良かったの知ってるから
何も言わないのよ。笑
もう泣いてボロボロの顔の私をただ見て
眉毛下げながら、私の手握ってくれるだけなのよ。
そういう優しさもさ、また泣けるよね。笑


「みんな健康に気をつけて、会える時にちゃんと会おうね」
って声かけあって別れた。


その後仕事でもう帰る組ともう一泊する組に分かれて
私はもう一泊する組だったから
みんなでホテル行って、着替えて
そのままYの住んでた街に飲みに繰り出して
Yの旦那が合流する予定だったから待ってた。


しばらくして、骨壷抱えたYの旦那が
改札から出てきて
みんなでYとYの旦那の新居に行って
途中でコンビニで酒買って
また乾杯して。


Yの思い出の品持っていっていいよっていうから
いくつか頂いて帰ってきた。



感情は山ほど抱いてる。
説明してたらキリがないから
書かないけど。


もう泣きたくないから泣かないって友達には言ったけど
布団入ったら勝手に流れてくるし
帰りの飛行機も勝手に出てきて
前向いたまま一人で泣いてたし。笑


喪失感って言っちゃえば
一言の日本語で済んじゃうけど
そんな単純なもんじゃないね。


でもこの二日間のことは
一生、死ぬまで覚えておきたいから書いた。


Yの戒名がね、最高で。笑
漢字四文字で上の二文字はみんなにつく
あんま意味のない(いやあるけど)文字なんだけど
下の二文字がね
一個は、Yの名前の漢字そのまま。
その漢字の元々の成り立ちが
【泣いてる人の背中をそっと押す手を表してる】らしくて。
Yの名前の漢字ってそんな意味なんだって初めて知って。
その次の字が、みんなを照らして導くって意味の字で。
えらく大層なお名前を頂戴したもんだねと思ったけど。笑
Yっぽいんだよなあ、ほんとに。

呼吸器つけて喋れなくなってからも
ベット横に並ぶ家族の頭をポンポンってしてたって言ってたし
どんなに入院中きつくても、カメラ向けたら
絶対笑顔でピースしてたんだって。

何だそれ、お前やばいわ。凄すぎ。
私は絶対無理。
普通に凄いし尊敬するしかないようなことを
最後の最後ですんな。笑


ちなみに元々60名規模の家族葬予定で
そういう会場だったのに
結果二日間で参加人数200名超えたって。笑
会場の人もコロナ明け以降こんなの初めてですって
言われたらしくて。
しかもその会場の一番大きいところでも
200名規模なの。
それ超えてんのよ。笑
マジで芸能人並みなのよ。お前どーなってんだよ。笑


という記録。



【更に追記】2024.02.14



Yの旦那にひたすら励ましの言葉を
送り続けている私ですが
私も大して、人のこと言えたもんではありません。


2月10日にYの実家で
Yのお別れ会を開くということで
Yのお姉さんより映像制作の依頼をいただきました。

家族との生い立ちプロフィール
Yの旦那との出会いから今日までのプロフィール
そして結婚式に余興をやる約束をしていた私たち酒クズから
サプライズ動画
という3本を制作しました。


そのサプライズ動画でも、Yのことを語ろうとすると
自然と勝手に、もう自動的に
そういうい機能でも搭載されてしまったのか
というくらいごく自然に泣けてしまい
私のコメントはマジでお話になりませんでした。笑


本当はYに対してや、Yとの思い出など
話したいことは山ほどありました。
それも語れないくらい泣けてきてしまって
笑って誤魔化すのに必死でした。笑


そして何より、自分の悲しいの大きさを
改めて実感しました。



例えば、例えばね
私にこの先子供ができたとして
その子を、Yはもう知ることはないのか
とか。


子供同士も仲良くなれたいいね
なんて話もしてたのにな
とか。


実は去年の夏。
自分の結婚式の前に
一度流産をしたことがあります。
それも私の人生の中では
なかなかに悲しい出来事で
人に言えるようになるまでに
少し時間がかかりました。

旦那と悲しいを分け合って
なんとか「しょーがない」と飲み込めた後
酒クズの女子メンバーにだけ
それぞれに少し話しました。


流産といっても
スルッと出てきてくれるものではなく
手術をして出してもらわないといけないタイプで
日帰りだし、旦那も仕事だったので
一人で行って、一人で帰ってきたのですが
Yはその時
「大きい病院怖いよね?!大丈夫?私行こうか?」
と言ってくれました。

私は笑って
「いや一人で行けるから」と言い
「これはしょうがない。初期流産はよくあることで
妊婦のせいとかじゃないって医者も言ってたし」
と気丈に話をしました。
実際それが事実だから。
でも、Yは
「○○は自分に厳しすぎるんよ」
と言ってきました。
今の話のどの辺りが?!と思いましたが。笑
後で冷静になって考えてみると
Yは見抜いていたのかもしれないと思いました。


あまりにも初期で、まだ人の形でもない
卵の形なのに
もうこれ以上育たないと言われたこと。
こんな状態で”子供”と呼んでいいのか
一丁前に悲しんでいいのか
それが不安だったこと。
それでもせめて私だけは"子"と呼んであげなければ、と
思っていたこと。
"育たなかった"ではなく
"育たせてあげられなかった"と思っていたこと。

Yは普段しょーもないことしかしてないけど
実は人のことをよく見ている。
自分で言うのもなんですが
私自身も人の変化に敏感な自信がある方のタイプです。笑
でも案外自分の気持ちには鈍感なのかもしれないと
Yの言葉で気づいた出来事でした。


だから余計に
子供ができたら
今度こそ
Yに喜んでほしかったんだよ。


旦那と先日好きなお笑いライブに行ってきたんですが
実は生前「ずるい!私も行きたい!」と
Yに言われていたライブで
帰り道に旦那が「Yもいればよかったね」
なんて珍しく言うもんだから
それもなんだか悲しくなってきちゃって。


あー会いたいな
なんて日、たくさんあるんです。
話したいな、なんて日、そんな瞬間
日々山ほどあります。


これを抱えていかなければいけない
ということ、長い長い先のことを考えると
簡単に、軽率に
絶望しそうになるけど。
それでも、なのです。


Yの旦那に言った言葉は
全部跳ね返って自分への言葉でもありました。



そのサプライズ動画に使用した楽曲
BUMP OF CHICKENの「宝石になった日」


適切な曲は、何かないかと
探している中で出会ったこの楽曲。
歌詞が本当に
私の、私たちの思っているそのままで
聞いて一人で泣きました。笑


作詞・作曲:藤原基央
編曲:BUMP OF CHICKEN & MOR

夕立が屋根を叩いた唄 窓の外で世界を洗った
掌にはなんにもない ただなんとなく眺めて何分

君は夜の空を切り裂いて 僕を照らし出した稲妻
あまりにも強く輝き 瞬きの中に消えていった

あとどれくらいしたら普通に戻るんだろう
時計の音に運ばれていく

あの温もりが 何度も聴いた声が 君がいた事が 宝石になった日
忘れたように 笑っていても 涙越えても ずっと夢に見る


太陽は何も知らない顔 完璧な朝を連れてくる
丸めた背中で隠して 冴えない顔 余計なお世話

出来る事はあんまりないけど 全くないわけでもないから
全自動で続く日常をなんとなく でも止めないよ

出来るだけ先の未来まで見届けるよ
出来るだけ先に運んでいくよ

こんなに寂しいから 大丈夫だと思う 時間に負けない 寂しさがあるから
振り返らないから 見ていてほしい 強くはないけど 弱くもないから

瞬きの中 消えた稲妻 雨が流した 君の足跡
瞬きの中 掌の下 言葉の隙間 残る君の足跡


増えていく 君の知らない世界 増えていく 君を知らない世界
君の知っている僕は 会いたいよ

ひとりじゃないとか 思えない日もある やっぱり大きな 寂しさがあるから
応えがなくても 名前を呼ぶよ 空気を撫でたよ 君の形に

あの温もりが 何度も聴いた声が 君がいた事が 宝石になった日
忘れないから 笑っていける 涙越えても ずっと君といる

君がいた事が 宝石になった日

BUMP OF CHICKEN Official Youtube


何度もこれから反芻することになる歌だと思いました。

サビは本当に言わずもがなですが

あとどれくらいしたら普通に戻るんだろう 時計の音に運ばれていく

なんて、直後の私たちの気持ちそのままで

出来る事はあんまりないけど 全くないわけでもないから
全自動で続く日常をなんとなく でも止めないよ

ぼんやりとした言葉だけど
それでも生きていく覚悟を
”持たなければいけない”私たちの想いが詰まっていました。


こんなに寂しいから 大丈夫だと思う 時間に負けない 寂しさがあるから 振り返らないから 見ていてほしい 強くはないけど 弱くもないから

忘れるとか、思い出すとか
そういう次元ではないところで
こんなにも、胸が潰れるくらいの寂しいが
ちゃんとここにあるから
変わらずに過ごしていけるよ
というYへの思いも。


増えていく 君の知らない世界 増えていく 君を知らない世界
君の知っている僕は 会いたいよ

私の上記で出した、具体的な怖い先の話。
増えていく君の知らない”私たちの世界”と
増えていく”私たちの”君を知らない世界。
この歌、強制的ではないにしろ
ゆっくりでいいからと私たちを促すような
比較的前向きな言葉でここまで来ているのに
ここで初めて「会いたいよ」と言うんですよ。


ひとりじゃないとか 思えない日もある やっぱり大きな 寂しさがあるから 応えがなくても 名前を呼ぶよ 空気を撫でたよ 君の形に

強くもないけど弱くもない私たちは
なんとか過ごしていけるけど
それでも寂しいに潰されそうな時は
君の形に空気を撫でるように、
そこにいるみたいな鮮度で
Yを思い出したいのです。


あの温もりが 何度も聴いた声が 君がいた事が 宝石になった日
忘れないから 笑っていける 涙越えても ずっと君といる

「忘れないから、笑っていける」
「忘れないから」なんですよ。
そこにいるように、変わらずに
だから過ごしていけるのです。



よくあるテンプレートの励ましの言葉なんて
なんの意味もないと
今回のことで知りました。

そこに私たちの気持ちを理解するものは
一つもなかったから。


母の言葉に苛立ったと、前に記載したように
よくある慰めの言葉は全部
Yを、故人を
「置いて進む」ことを選べというものばかりで
どうしてもどれもこれも、受け入れられなかったです。


この歌は
「それでも尚、一緒に」
という優しさが存在していて
Yの死後、初めてしっくりと来た
私たちの気持ちを上手に文言化された歌でした。


Yを思いたいときはこの歌か
Yの好きだった菅田将暉か
お葬式で流れてた何曲かを聴くことになるかなと思います。笑





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