感情は人が彩色しているに過ぎない
人生最後の通過儀礼。消えたばかりの命には朧のようなあいまいさが存在する。それを向かうべき世に導くための日本らしい儀式。こんなに小さな国なのに、そのあり様も雑多で興味深い。
墓石デザインの違い、葬儀の赤飯、祝儀袋に入れる香典、線香の本数の決まり事、土葬や縦棺の話、墓掘る長男など。死を取り巻く文化はどこまでもミステリアスである。
ある時、遠縁の葬儀に参列することになった。市街地から遠く離れた高い針葉樹に囲まれたその場所には、外界へ通じる県道が一本。この道が崖崩れなんかを起こしたら陸の孤島という横溝正史風封建的因習の未だ残りそうな幻妖的ミステリーな妄想が止まらない。不可思議な数え歌や子守歌、落ち武者伝説の幕が上がる場所である。
宗派は定かではないが読経の前に楽譜が渡された。後に調べたところ、これはご詠歌というものらしい。仏様の教えを曲に乗せて唱えるというもの。賛美歌みたいなものかな。おお、ちょっとだけ金田一シリーズ入ってきた。
マナーにとかくうるさい儀礼のために「そそう」が許されない緊張感からか、小さな失敗は大きな笑いに紐づけられている。
住職のご詠歌は落第点だったのだろう。それが譜面通りではないことは誰の耳にも容易にわかった。大変気持ちよさそうに唱えてはいるが音程もリズムもめちゃめちゃなのだ。最初から最後まで土管ステージ状態だよドラえもん。
死んだばかりの霊魂はひどく不安定なものだと聞く。これで迷わずあの世に向かえるのだろうか。僕は旋律と呼応する笑いを隠し通すことができない。
人というものは斯くして「だめ」と言われた禁止事項に対して体が激しく反応する。禁忌には近づくし、押さないでくださいと書かれたボタンは、ご自身の判断でご自由にどうぞという勝手な変換をする。僕の静かな笑いは隣席へと伝染し、やがて会場全体に密やかな笑いが蔓延する。泣いたフリでごまかすなよそこ。
葬式の神妙さというものは1ミリ違うとコントにほかならない。よくよく考えたら起きている事象はひとつ。喜怒哀楽を生み出しているのはその人自身。
死ぬほど面白かった葬儀だったが、崖崩れも、モチロン殺人事件も起こらなかった。
僕は立ち会うことが出来ない、いつか訪れる僕の人生最後の通過儀礼。
悪魔が笛でも吹いてくれたら嬉しい。
(180日)
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