第1話 兎


去年の冬、僕のゲームのアイコンばかり並んでいるスマホに見慣れない兎のロゴのアプリが追加された。
「これ、通知くるから多分、分かりやすいんじゃない?」
こちらを1ミリも見ようとせず淡白な口調で僕のスマホを枕元に投げたのは、中村美穂、同じ学部の2つ上の先輩だった。なんのアプリ?と聞きながらその兎アイコンをタップすると、彼女は見ればわかるとだけ言ってヴィヴィアンの赤いマフラーを器用に首に巻き付けて、帰る支度を着々と進めていった。
対照的に、まだ布団にくるまってパンツも履いていなかった僕「もう帰るの?」なんて幼稚な質問をする事すら拒まれた気がして、この後昼にラーメンでも誘おうかななんて青い期待もそっと消された。兎のアプリが起動されると、カレンダーが画面いっぱいに表示されて暗闇で僕のマヌケ顔を照らした。
「また、1ヶ月後くらいかな、通知来たら連絡して」
あっけらかんとしてる彼女は、昨日あったことも、最近彼氏とセックスレスな事も、全て理解して飲み込んだような表情をして、そのアプリの説明をせずに僕の髪の毛を撫でてワンルームの部屋から出ていった。

事の始まりは昨日。
サークルというものに入っていなかった僕は、入学してから新歓や飲み会とは縁のない大学生活を送っていた。
地元を離れてひとり暮らしする為に授業後や休日はアルバイト、休み時間は特に社交的でもないからひとり食堂でバイト先のコンビニから持ってきた賞味期限の切れたツナマヨおにぎりをかじっていた。
一方、中村美穂はどの学年の男子から見ても高嶺の花と言われるような凛とした顔立ちで、長くて肩甲骨あたりまである黒髪を華奢な肩におろしながら歩くその姿は花と呼ぶのが相応しかった。
食堂のはじっこでいつも通りツナマヨのおにぎりを食べていると、スタスタと誰かがこっちに歩いてきた
シャンプーのような柔軟剤のようないい匂い
ふと見上げると中村美穂が切れ長の目でこっちを見ていた
「ねえ」「ちょっと、君だよ」「何してるの?笑」
僕は高嶺の花に話しかけられるような人間じゃないから
別世界の人間がなんで僕の前にいるのか全く理解できなかった。後ろかとなりの誰かだろうとキョロキョロしていたが、こんな食堂のはじっこに僕以外が居ることは無かった。
「あ、はい、、なんかありましたか?」
ようやく僕に話しかけていることが確信になった。
マスクの下で笑っている彼女の目が細く三日月を描く、食べかけのツナマヨおにぎりを持っている左手が汗ばんで少し震えているのが分かった。海苔が指にくっつかないかなんてどうでもいい事を考えていないとこの状況についていけそうになかった。
「今日、先輩たちの卒業制作の打ち上げあるんだけど、来ない?いつも1人だし」
この大学に入って初めての(そういったコト)への誘いだった。周りの違う学年の男どもからの怪訝な視線をちらほら感じられる。高嶺の花をこの公の場で断ることはできない。中村美穂はずるいのか天然なのか、追い込まれたと思ってるネズミと遊んでるつもりだったネコのような画角になってしまった、
「僕なんかでよかったら、行きますけどお酒弱いですよ」
怪訝な視線を送ってくる男達に話の内容が聞こえないように小声で返したのに、中村美穂はそんな事も気にせず
「ほんと?!じゃあ午後の授業終わったらH棟の銅像の前ね!よろしく!」と子供みたいに無邪気な声を食堂に響かせて黒い髪を揺らしながら颯爽と僕を取り残して去っていった。
ぽかんとしている僕に突き刺さるのは
色々な学年の男たちの嫉妬入り交じった生ぬるい視線とボソボソと聞こえる愚痴だった、さっきの今で切り替えなんてできない僕は、たべかけのツナマヨおにぎりなんか食べる事が出来ず、綾鷹のペットボトルに詰め替えた水道水を一気に飲み干した。案の定海苔が指にくっついて麒麟模様になっていた。

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