ワクワク教に気をつけろ!

仕事にしろ遊びにしろ、熱中することとか、ワクワクすることはとても大事な要素だと思う。それは否定するつもりはない。私だって、仕事はお金がもらえるからとりあえず~という動機しかないとすぐにくたびれて嫌気が差してしまう。むしろ私のようなタイプこそ、熱中、ワクワクが付帯する仕事を積極的にやっていかねばならないのだ。

もともと勢い、情熱で取り組む人間だった私は、残念ながら新卒時に空回りしてしまい、こてんぱんにやられてしまった。それから10年ほど、頑張ってもいいことがない、というような自分に蓋を被せられたような感覚に苛まれてきた。ようやくこの頃そういうものを拭い去ることができた。

その過程で、サポート校といって普通科の高校に通えない、通いたくないというような不登校傾向の子供が多い通信制高校の学習支援をする場で働いたことがある。いろいろ失敗して撤退し、考え方を切り替えて働くことに前向きになったのはまた別の話だが、ここで得られた経験は良くも悪くも貴重なものだった。今回はその一つをお話したい。

そのころ、心理カウンセラーのような専門家を招いてイベントを主催したりすることもあった。そのイベント自体は私にとっても非常に有意義だった。知らないことにたくさん触れられた。本来はそこそこ参加費を払って聞くような話を役得で聞けたのはラッキーだ。しかし、そこに集まる人達を見ていると、心底嫌気が差したのだった。

彼らはひとことで言うと、「空っぽ」な人たちだった。

セミナーではワクワクする気持ちを大事に、というテーマが考え方の中心だった。それ自体はとてもいいと思っている。反論の余地はない。しかし、これだけが肥大すると非常にめんどくさいことになるというのが、このとき見た景色である。彼らはなにかあると「ワクワクすることをやろう」とイベントや飲み会のようなものを企画した。SNSで宣伝したりして。そこまではいい。ところが、場所なり仕組みなりあるいは作業なりを提供してくれた方へのフォローや、後片付け、ごく一般的な社会常識、そのようなものが抜け落ちたままワクワクするイベントやらは周囲を散らかしながら進行していく、というのを何度も見る羽目になった。

それを諌めれば、取り巻きと一緒にこっちを指さして嘲笑し、排除にかかる始末だ。こっちは一個もワクワクしねえよ!!!!!ふざけんな!!!!

本来自由とは自立した責任感とセットなのだと思うが、どうやら責任感のない人たちがそのような後のことを考えないふるまいをしていた。お金のことも有耶無耶にする。苦手なことはやりませーん、って。関係者への感謝とフォローも的はずれなところでSNSに書いて終わり。本当に骨を折った人に対しては図々しいままだ。そのしわ寄せは、結局自己肯定感が低いとか、おとなしい人に向かっていくのだ。私は喧嘩っ早いから片っ端から叩き出していったが逆に怒られるというねwしかも、離れようとすると豹変してこちらに人格否定も含めた抑圧を始めるw

結局、やってる本人は楽しいかもしれないが、彼らは「いつも楽しいことしかやらない」を旗印に、周囲のフォローや後始末にタダ乗りしているだけだった。確かに自己肯定感が低くていつも何かに怯えているような人には、もっと自分を大事に、ワクワクを大事にという自分に素直になることを取り入れてもらうことはとてもいいことだ。しかし彼らのやっていることは、結局本当に救いが必要な人たちに対してもはた迷惑なのではないかと思った。

数年前、Facebookが大人社会で浸透していくのと同時にこのような「楽しいことしかしません」ワクワクムーブメントが発生した。その第2世代がいわゆる意識高い系かもしれない。

結局彼らのワクワクは自分の中にしか向かっていない。だから、空っぽなのだ。自分の信念などどこにもないので、自分に都合のいい教義を教えてくれる存在になびいて、コロニーを形成する。今もまたどこかで誰かを振り回し、そのように都合よく行きているのだろう。私に言わせれば、なにかにつまずいて心理分野に興味を持って集まったのかもしれないが、自分の課題から逃げている人ばかりだった。実に空虚である。

さて、仕事や生き方のワクワク、ちょっと振り返ってみよう。ワクワクの対象は、自分以外の誰かもワクワクするだろうか。世の中が少し良くなるだろうか。誰かに有形無形のなにかを与えることができるだろうか。

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