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読書感想文「行為の経営学の新展開」③

賞を総なめにした経営学研究とは

第2章は、兒玉公一郎(現日本大)による「デジタル・ミニラボ」の事例研究である。
同事例にかかる研究(兒玉, 2013; 2020)は、組織学会高宮賞・日本経営学会賞・企業家研究フォーラム賞をはじめ経営学系の賞を総なめにしている。
むろん、良い研究が必ず受賞するわけではないし、賞を獲るから手放しに良いわけでもなかろう。ただ、近年でもこれだけ各学会で高い評価を受けた研究はそうそう見当たらず、その点でも注目に値する。
 
兒玉の一連の研究の、何がウケたのだろうか。筆者が論評するでなく(そんな立場にはない)、諸所の評価を見聞きしたものから類推すると、言うなれば「経営学っぽい」のだ。「これぞ経営学」というか。
その研究デザインや考え方・視覚は、同じく事例研究として世界的名声を得たクリステンセンの「イノベーションのジレンマ」を彷彿とさせる。 

(追記)
これは筆者の妄想を含む分析なのであるが、
今の日本で、規模のある二大経営学系学会といえば、組織学会と日本経営学会である。
ウェブサイトで調べた限り、記録の残っていた2000年代以降、両学会の「高宮賞」と「日本経営学会賞」をダブル受賞した著作は二冊のみである。
(仕組み上、論文がダブル受賞することはなく、また高宮賞には年齢制限があることに留意。)

加藤俊彦『技術システムの構造と革新: 方法論的視座に基づく経営学の探究』と、兒玉の『業界革新のダイナミズム』のみ、である。
つまり、なんと、本書の第1章・第2章の著者なのだ。
偶然だろうか?
本書はそんな意味でも「日本語経営学」の髄が詰まった本なのではないだろうか。

街の写真屋さんはなぜ生き残ったか?

まず、ストーリーが面白い。カメラのアナログ(フィルム)からデジタルへの移行、という社会的インパクトの大きかった技術移行がテーマ。ふつうに考えれば、新技術への移行は既存業者の毀損を伴うし、新技術への移行をいかに「意図的に」完遂するかに焦点が置かれる。

そこで、兒玉氏は直感に反する発見事実を提示する。かつて、フィルムカメラが大勢を占めた時代、一般消費者はフィルムを街の「ラボ」に持ち込んでいた。現像してくれるお店がその辺にあったのである(情景を思い浮かべた方も多いだろう)。筆者の実家近くだと、文房具屋さんがそういうビジネスを兼ねていて、店先に富士フイルムの緑ののぼりを掲げていた。

普通に考えれば、そういうラボは新技術の登場で死滅に向かうだろう。デジタルカメラは「おうちプリント」という言葉がうまれたくらいで、自宅でも現像できるのが強みである。
 
ところが。実は、少なくない数の「ラボ」は、「お店プリント」ビジネスを担う事業者として生存したのである。

ヘッダー画像は、このサイトから転載したものだ。埼玉県飯能市のPRサイトが出所で、記事が書かれた2021年時点で「携帯電話のカメラが全盛のこの時代でも来店者が後をたたない人気店」「うちはまだまだフィルムを現像しにいらっしゃる方が多い」そうだ。まさに兒玉理論を体現したようなお店。

こうした発見事実は、いくつかの問いを喚起する。なぜ資源をもたない小規模事業者が、大手に駆逐されず生き残ったか。そのための転身が、なぜ比較的スムーズに行われたか。そもそもなぜ、店に持っていく消費行動が維持されたか。その間、富士フイルムなどの主たるプレイヤーは何をしていたのか、…。

行為の連鎖の結果としての変革

主な筋書きは、こうだ。

①    デジタル・ミニラボの出現
富士フイルムが、デジタル・ミニラボという技術を開発したことが契機である。デジタル・ミニラボは、事業者向けの、デジタル対応の現像技術パッケージである。ところが、多くの予想に反するであろうこととして、デジタル・ミニラボはデジタル移行を見越して開発された技術ではない
むしろ既存のフィルムをいかに美しく現像するかを主眼に置きながら、当時新技術として注目されつつあったデジタルを同時搭載したというニュアンスであった。

つまりこの技術は創発的に開発されたもので、決して技術移行を見越した意図的なものではなかった。但し、富士フイルムはイノベーション経営を語るうえで欠かせない、重要な標語を掲げている。主導した研究者は「本業を陳腐化させるテーマ」を社内で開発するというグループに属していた。
攪乱的なイノベーションが社内からでも起きることを想定しないとできないR&Dだ(この点で、富士フイルムは卓越した企業であるともいえる。それは本当に意図せざる、なのか。意図せざることが起きない企業は存在せずとも、意図せざることが起きても対応できるように意図する企業は存在している。前回note参照)。
 
②    カメラのキタムラの積極性
アナログからデジタルへの移行に対し、業界内で特に敏感に反応したのがキタムラであった。キタムラは、カメラ周りの諸々を扱う事業者で、この総合性が功を奏した。フィルムカメラが売れなくなっていて、デジタルカメラが売れ始めているというのを肌感覚で感取していたのである。

よく「なぜ環境の変化に適応できなかったか」みたいな問いが提示される。これはおそらく、環境の変化の感取の難易度を低く見積もった問いかけである。環境の変化は根本的に感知しづらく、多くは遅きに失した状況にならないと感知できないと思うべきだろう。

尤もキャッチアップの手法はどんどん進化しており、売れ行きや顧客の選好といったデータは、データとしては即時的にマネジメント層が知りうるものになりつつある(それこそDXだ)。
しかし、当時はまだまだそこまでDXが進んでいなかったろうし、現場での変化を見抜き、この情報がマネジメント層に吸い上げられ、危機として認識され変革に着手されるという理想的なプロセスは、かなり多段の難所を超えないと実現しないと思うべきであろう。
 
またキタムラは「予言の自己成就」に関わっていたともされる。キタムラの経営判断は一見すると、「勝てる新技術に早く移行する」というセオリーに則った、法則に従った意思決定のようにみえる。
しかし「結果的には」、キタムラのような中間的なポジションにありつつも有力な事業者が率先して移行派に転じ、働きかけたからこそ、デジタル化が促進されたのだという理解が妥当だと解釈できる。これはつまり、「法則を信じ法則通りに動こうとするからこそ、法則が事後的に追認され強化される」というプロセスそのものである(参照)。
 
③    街場のラボ
ここまで来て、変化はより多くのプレイヤーの認識にのぼるようになる。誤解を恐れずにいえば、街場のラボは、変化を敏感に感じ取って移行を決断したのではない。むろんそういう聡い事業者もいたではあろうけども、少なくとも多数派ではない。
デジタル化移行のための技術は、偶然の結果として既にパッケージングされていた。キタムラら先取的な企業の意図とライバル企業との競争によって、デジタル・ミニラボという「解」が、早期に準備されていたのだった。

つまりアナログvsデジタルの趨勢は予測不可能だったとしても、デジタル派についたときの解がもう既に転がっていて、あとは街場のラボにとってみれば、それを導入するかどうかを決めるだけだった、といえよう。

このときの街場のラボの多くは、こうとしか考えていなかったはずだ。 

「よくわからんけどキタムラがやってるんだからやるべきなんだろうな」

このフェーズにおいて最も重要だったのは、意思決定のための諸要素がかなり簡潔化されていて、不確実性が低減されていたことだった。むろん、デジタル化という流れが不可避であることは事実として多くに認識されてはいただろうが(されていなかったかもしれない)、それがいつまでに何割の移行が起きるのか、既存技術の市場はまったく残らないのか、といった移行の具体性については不確実なままであったはずだ。

法則定立的な考え方に則ると、こうした未来をいかに説明可能とするかに努力を割くべきだといえる。

ところが実際には、上流や大手企業のアジリティと努力によって、新技術移行が早い段階で「既成事実化」し、不確実なはずの未来が確実なものとして認識される、という状況が導かれた。だからこそ、積極的な変革意志も、十分な資源ももたない街場のラボとしても、移行が容易だったのである。
(なおこのとき、それでも新しいデジタル・ミニラボに置換するだけの体力がなかった零細業者が市場から撤退していたようだ。変革のための資源を有していないとそもそも生存できなかったわけだ)。
 
④    消費者
そして、もう一つ大事なのが、消費者側の行動がほとんど変わっていないという事実である。つまり、こうした移行は非常に短期間かつスムーズに行われたため、「フィルム/データをお店に持っていく」という消費者側の行動はほとんど変わらなかったのだ。
扱う技術が変わっただけで、行動変容を伴う必要がなかったこともまた、技術移行と既存業者の生存が両立したことの重要なファクターであったといえる。 

それらは偶然が繋いだもの

兒玉はこうした発見事実を総合するうえで、「偶然」の介在を強調する。それぞれのフェーズで起きたことは、事後的には必然とすら思える整合性を伴ってかみ合うものの、決して意図された連鎖ではないというのである。 

・富士フイルムは、破壊的技術の開発については意識的に投資していたものの、デジタル化のために決定的に必要だった技術については、特にデジタル化を意識してはいなかった
・キタムラは、技術の移行についてはいち早く危機感をもちアジリティを発揮したものの、それは「思い込み」「決めつけ」が伴うものでもあった
・街場のラボは、キタムラら有力業者の動きに沿うべく、既に準備された新技術を導入したにとどまり、市場分析や抜本的な変革、大胆な意思決定が必要なかった
・消費者は、使うカメラと店に持っていく媒体を変えるだけでよく、これまた大胆な変容を選択する必要がなかった

という、それぞれ偶然性と不可分な要素を含んだ結果が、デジタル・ミニラボの普及になったというのだ。 

思い込みの経営学

以上のように、兒玉の研究はまさに行為システムを支持し、また偶然性の存在を強調するものだ。こうした議論はミンツバーグの創発性(emergency)にも類似している。

筆者の感想としては、ミンツバーグが想定したような、意図した戦略が部分的にはうまくいくけど部分的には意図せざる結果が生じて、ゆえに軌道修正しながら乗り切っていく、というものが創発性だとすれば、兒玉の示す事例は創発戦略ではない

いわば、不確実性の高い環境下で「そうであると思い込む」ことによって逆に不確実性を排し、あたかも予言成就のように周囲を動かしたキタムラの存在と、諸条件のかみ合いによって、結果的にスイッチングコストを低く抑えた街場のラボ・消費者らの「慣性」、変わらなさが良い方に転じたのだといえよう。
不確実ななかで環境の変化を読むのでなく、法則を見出すのでなく、思い込む意思の強さと、偶然の連鎖が意図せざる変化をうんだ。こういう筋書きがとても経営学の事例研究っぽくて(?)、行為システム論に依拠することで説明可能になるロジックだったということだろう。

参考文献
兒玉公一郎. (2013). 技術変化への適応プロセス── 写真プリント業界による写真のデジタル化への対応を事例に──. 組織科学, 47(1), 40-52.
兒玉公一郎. (2020). 業界革新のダイナミズム: デジタル化と写真ビジネスの変革. 白桃書房.

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