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読書感想文「行為の経営学の新展開」②

※①②は、第1章「実践的方法論としての<行為システム>」までの内容である。①はこちら

競争戦略論と行為システム論 

行為システムを提唱した沼上は、いくつか関連した経験的研究も発表している。主たる領域が競争戦略論だ。たとえば行為の経営学以前の業績ではあるものの、「対話としての競争」(1992年)は、そのタイトルからして行為システムの世界観がつよく反映された研究であるといえよう。

たしかに、競争戦略論はきわめて行為システムとの相性が良い。M&Aの例でも述べたように、競争戦略は「逆張り」がおおいに可能性をもつからだ。「こうすれば勝つ」という定石としての一般法則が確立されたとして、とりあえずは、ほとんどの企業がそれに従うようになるだろう。
ところが、みな従うがゆえにその法則はコモディティ化・陳腐化し、得られるはずの競争優位は目減りする。逆に敢えて違う方法をとることで、競争に巻き込まれずに利益を得ることが可能になりうる(著名な経営学者曰く、「競争戦略論の要諦はいかに競争しないかにある」)。

こうしたメカニズムが「差別化戦略」として根本概念になり浸透しているくらいで、競争戦略論はまさに意図と行為にまみれた、非決定論的な世界観で展開していく理論なのである。 

行為システム論の特徴

改めて行為システムの特徴を挙げると、①行為主体の意図、②相互依存関係、③意図せざる結果、の三つに集約される。個人や組織は意図をもっており(ちなみに、「敢えて何もしない」といった無作為もまた意図的であろう)、その意図は他のプレイヤーに影響しており&影響されており、経時的に意図せざる結果を招く。行為システムとは、この前提を以て現象を分析しようというアプローチなのである。
 
とはいえ、三つの特徴は、行為システム「のみ」にみられる「完全オリジナル」ではない(別にそうである必要はないのだけど)。
意図(意識の向き、傾注)を考慮するのは主観主義や解釈主義の基本中の基本であろうし、相互依存関係はゲーム理論はじめ経済学など他領域でも中心的に扱われてきた題材である。

そのなかで特に行為の経営学の独自性を強調するならば、「意図せざる」結果の考慮にあるだろう。なので、行為システムについて詳しく論じるのであれば、特に意図せざる結果という概念を深耕するべきということになる。 

意図せざる結果のメカニズム

ある意思決定の産物である原因X1が、ある程度予想された結果Y1のみならず、意図せざる結果Y2を導く。さらにY2によって、さらに結果Y3が導かれる。これが意図せざる結果の典型である。また、このとき結果Y2は原因X2でもある。
たとえば、取引先との固定的な関係(X1)は緊張感の欠如ゆえにコスト意識の欠如(Y1)を招く。一般的には日本企業は系列に代表されるように固定的な関係を選好してきたので、取引関係を柔軟に組み替えてきた米国企業に比してコストで劣り、ゆえに競争劣位となるという通説があった。
 
ところが、固定的な関係(X1)は企業間の強固な信頼(Y2)という別の結果を生じさせており、強固な信頼(Y2=X2)はまた新技術への挑戦(Y3)という革新志向の意思決定を導いていた。かくして、こうした「意図せざる結果(群)」の作用によって、固定的な関係を好む日本企業が競争優位を獲得する、という説明が可能になる。 

ナチュラルボーンの行為システム思考

ここまでの話を少しずらすと、たしかに説得力のある興味深い論理だと感じると同時に、「経営学を学ぶことでしか得られない知見」ではないことも判ってくる。特に、卓越した経営者の少なからずは、こうしたことを直感的に見抜いており、既に現実の経営に反映させているはずなのだ。
筆者は野球が大好きで、プロスポーツなんてまさに、こういう嗅覚が鋭い人々がおりなすものである(「フルタの方程式」を視よ)。これは実は、「経営者別に経営学やってない問題」の解でもあり、経営学と経営実務の微妙な関係を表したものでもある。
 
著名で、人気があり、経営学でもよく題材になるような人物で、そうした実践知をもつ人物としては小倉昌男(ヤマト運輸社長、宅急便事業の創始者)が代表格であろう。沼上は2018年、まさに小倉昌男を題材とした書籍において、小倉が「カテゴリ適用法や要因列挙法で留まっている人々の思考を、固定観点に縛られた、非合理的なものだと考えていた」と指摘する(p. 259)。

カテゴリ適用の誤謬

カテゴリ適用法とは、沼上が提示する典型的な経営戦略の思考法のうち、最もベーシックかつ低次なものである。ある現象を説明する際に、より大きなカテゴリの一部に位置づけようとする思考だ。
「あの会社儲かってるよね」「ITだからね。IT調子いいじゃない」。日常会話レベルでも多用されるものの、明らかに緻密な議論ではない。儲かっていないIT企業もごまんといるからだ。「あの人面白いよね~」「関西人だからね」。

尤もカテゴリには、コミュニケーションの道具として社会的イメージを共有する、みたいな効果もあるわけで、一概に否定すべきものでもない。ただ、社会事象を解明するよすがとしては、あまりに心もとない。
 
行為の経営学が示す箴言は、「単純で少数の変数のみで、かつ短期間のみの測定で、結果を説明しようとすること」を止めなさい、というものだ。
ある単一の概念のみで結果を普遍的に説明することは、特に社会事象においてはきわめて困難だ(にもかかわらず、日常でわれわれが多用してしまう方法でもある)。 

一歩進んで要因列挙

カテゴリ適用から何段階か進んだ思考が、要因列挙法である。つまり、説明変数となる原因をできるだけいっぱい挙げようじゃないか、という志向だ。「ブレスト」に近いものがあるかもしれない。
これは実際のところ簡易なわりにばかにならない効果があり、科学的トレーニングを受けておらずとも実践可能な知であるともいえよう(だから繰り返すように、実務家は自然にやってたりする)。
 
つまり、ある結果を導く要因を列挙し、そのカタマリとして因果関係を捉えようとするわけである。トヨタはなぜこんなに強いのか、という考察を行ったとして(経営学には類似の知見がかなり蓄積されている)、系列、ハイブリッド車などの技術力、ブルーカラーを含めた人材育成、取引先との価格交渉力、国際展開、同族経営、などなどかなり多面的な主張が可能である。
そうした「マルチレベル」の分析を伴わせることで、考察の妥当性を高めようとする手法である。 

さらに進んでメカニズム解明

ただ、要因列挙は往々にして「列挙」しただけであり、要因間の関係や時系列の分析が欠如していることが多い。それらの要因間の関係と時間概念を加味した思考法が、メカニズム解明法である。沼上は、行為システム論を追究した結果としては、メカニズム解明にまで至ることが理想であると考えている。
 
(以降は、筆者の考察が中心である。) 

両面思考のすすめ

意図せざる結果を深く理解するためには、ある原因Xからは、ポジティブな結果Y1とネガティブな結果Y2とが発現する可能性が、少なくとも潜在的には必ずあることを理解せねばならない。つまり、まったくポジティブな結果しか生まない原因も、ネガティブなそれもないのだということである。
 
筆者は、あるセミナーに参加したことがある。「よい研究とは何か」というテーマでのディスカッションで、「ぜひ、先生方の思う『よい研究』を教えてほしい」と質問したところ、会計学の大家である先生はこう仰っていた。 

「両面性があるというか。何事も、良いことにしかならないってこともないし、逆もそうなので。その両面性を備えているのが、良い経営学研究だと思います。
だから私は、実務家にいい顔するような研究(者)はダメだと思うんですよ。実務家が喜ぶからって都合のいい結果しか述べないような人いるじゃない」

かつて近藤誠という医師がいた。トンデモ理論を展開したと批判され、特に同業者からの評判はよくない。が、歯医者に通っていたとき、(なぜか)近藤氏の本が置いてあって、読んでいたら非常に的確な一節をみつけたことがある。 

「よく副作用と言うが、あれは副作用ではない。主作用である」

薬に関していえば、われわれは人間にとって都合の良い効果を作用と言い、悪い効果を副作用という。ただ、副作用というと、たまたま出ちゃった悪いものであり、仕方ない、運が悪かった、あくまで従属的に出るものだ、みたいなニュアンスを喚起する。
そうじゃないのだ。副作用は、高確率で起きる作用であって、価値判断上都合が悪いから副作用とよばれているのだ。
 
意図せざる結果が、なぜ多くの人々にとって「意図せざる」ものなのかというと、多くの人々は、ポジティブ/ネガティブのどちらかの未来しか想像していないからであろう。日本企業が固定的な取引関係を好み、あまり流動性をもたないと聞くと、それだけで「絶対悪」と思い込んでしまう。だから、そういうカテゴリ帰属的な、過度に単純化された思考をするほど、意図せざる結果がもたらされる。
 
コンコルド効果という概念があって、まあ言うなれば「今更やめられない」である。サンクコスト(埋没費用)効果ともいって、過去の投資の多寡は未来の成功に関係がないのに、投資の多寡を意思決定に影響させることを指す。
で、講義でコンコルド効果を扱った際、こういうコメントがあった。 

「とはいえ、『今更やめられない』で一丸になれるとしたら、コンコルド効果にはそういうpositive effectもあるのではないでしょうか」

いや、まったく、その通りだ。そう考えられる限り、この方は意図せざる結果にあまり遭わなくて済むだろう(もちろんいい意味で)。
 
禍福は糾える縄の如し。ある原因は、われわれにとって都合の良いものも悪いものも、両方内含して結果をもたらすのだ。
 
なお、こうした議論は、実は古典においても示唆されている。マートンの「機能/逆機能」が原点であり典型といえるだろう。官僚制組織には「順」機能があり、しかし逆機能もある。問題は、だから官僚制はダメだと言うことではなく、そういうことを知っておいて、いかに機能を引き出して逆機能を抑えるか、工夫することにこそある。これが両面思考である。 

行為システムは本当に新しいか?

沼上の研究者としての特徴として、むやみに新語を用いず、既存概念(の組み合わせ)で説明することに長けている、と感じる。組織の<重さ>など、最たるものであろう。行為システムもそうだ。
(余談だが、日本語経営学界隈にはけっこう「一橋語」があるようだ。「発見事実」とか。○○の罠もよくみるし、アカデミックライティングで「~けれども」を多用するとか。絶妙にこの世にないけど、きちんと意味がわかる言葉なのが凄い。特に発見事実)
 
だから、というわけでもないが(?)、行為システムはどの程度に新規性があるのかは検討する価値があるだろう。なぜなら、先述したように、行為システムの典型たる三つの要素は、中には特別に新しくないものもあるからだ。
 
たとえば、主体が意図をもっていて、諸要素が相互に依存し影響し合いながら、因果のプロセスが連鎖していく。これこそが社会事象であるという視座は、いうなれば(もちろん一部のだが、おそらく主流派のひとつの)歴史学の思考そのものでもあるからだ。

また、Langley(1999)で著名なアン・ラングレーの「プロセスアプローチ」も、ほぼ同様のことを述べている部分がある。
(逆に言えば、Langleyのうち最も引用されているのが1999年の文献で、行為の経営学は2000年。ラングレーがもはや世界を代表する論者の一人であることをふまえると、沼上の業績は世界レベルできわめて革新的であったとすらいえよう)
 
つまり、行為システムの議論は、ある程度の部分は既知で、かつ現実にも実践されてきたことでもあるはずなのだ。そして、新しいかどうかという問いに対する答えの一つは「意図せざる結果」であり、この概念は筆者の知る限り(沼上式)行為システム論に特有の概念である。 

通説はまだ通説であるのか

そして、最後の疑問。既にほのめかしたように、意図せざるとは、どこまで/いつまで意図せざるだったのだろうか、という点である。言い方は悪いが、カテゴリ適用でアタマが止まっている人や組織にとっては、世界は意図せざることダラケであろう。
もちろん行為システム論はそんなレベルの低い話をしているわけではなく、限定合理性ではないが、どれだけ経験し、思考を詰め、意思決定しても、意図せざることが起きる程度には社会が複雑であり、経営が難しいと前提しているのだろうし、それは深く同意できる。
 
とはいえ、たとえば小倉昌男のような卓越した経営者にとれば、他社によっての意図せざる結果を意図して導くようなこともできるのであろう。コンコルド効果の正の側面を捉えた学生さんも、似たようなことはできそうに感じる。
 
だとすれば、次のようなことが考えられる。
まず、行為主体が学習をするかどうかは、行為システムの成立にきわめて重要な論点となる。つまり、意図せざる結果には常に法則化の罠が待ち構える。意図せざることが起きても、それを学習して蓄積させていけば、そうそう意図せざることが起きなくなっていくという論理である。そして、となると本来は意図せざる結果だったものが、いつの間にか(行為システム的には認めづらい)一般法則のように扱われる危険性もあるのではなかろうか。
 
端的には、意図せざる結果が常に起きつつも行為主体が学習を続けた場合、それでも意図せざることは起き続けるだろうか。そう言える/言えない根拠は何か。程度の問題だろうか。そんなことを思った。

参考文献
沼上幹, 浅羽茂, 新宅純二郎, & 網倉久永. (1992). 対話としての競争――電卓産業における競争行動の再解釈――. 組織科学, 26(2), 64-79.
沼上幹. (2018). 小倉昌男: 成長と進化を続けた論理的ストラテジスト. PHP研究所.
Langley, A. (1999). Strategies for theorizing from process data. Academy of Management review, 24(4), 691-710.

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