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読書感想文(1)死の接近がもたらす影響

題材:清水剛先生著「感染症と経営 戦前日本企業は『死の影』といかに向き合ったか」中央経済社

 コロナ禍という情勢もあってか、最近一部で話題になっている本書。近日中に読書会的なものがあるので、改めて本書を読んでおり、改めて非常に感銘を受けています。書評を述べるほどの立場ではないので、思ったことをつらつらと、読書感想文として述べていきたいと思います。

 さて、本書の目的は、「コロナ後の企業経営を考える」ために、「戦前の日本社会における企業経営のあり方を検討する」ことにあります。コロナ一色の昨今の社会において、コロナ後を考えることはもちろん重要だとして、それでなぜ「戦前」なのでしょうか。

死の身近さ
 本書は序章において、まず「死の身近さ」というテーマについて語ります。学術書らしく、データや引用を丁寧につむぎながら、戦前の日本の状況を紹介されています。1918年夏頃に日本で流行した「スペイン風邪」第一波では、死者数およそ26万人、人口1千万人当たり死者数4.5人、とのこと(p. 2)。死者のインパクトは、コロナ禍でのヨーロッパや米国の人口当たり死者数のだいたい2~4倍。現代日本に換算すると、計80万人程度が亡くなったことになります。コロナ禍による日本の死者数は、14,000人を超えたくらい(NHK調べ)。コロナ禍で現代がこれだけ阿鼻叫喚であるのに対し、優に5倍以上の死者を出したほどのパンデミックが、たとえば高校日本史でも全く触れられないということに、改めて驚きをもちました。
 これだけの人が感染症で亡くなっていて、当時の市井の人々の暮らしに影響はなかったのでしょうか?本書では、小説や映像作品を引用しながら、当然影響があったのだろうと考察されています。なお、清水先生とは学会の懇親会で何度かご一緒させていただいたのですが、柔和なものごしから示唆深く面白いエピソードトークを連発されるのが印象的で、本書ではそういった清水先生の教養の深さを垣間見ることができます。さて、先生曰く、これだけの死者が出ていると、著名人などに関わらず、夭逝することが全く珍しくない。家族はもとより、自分より年下の家族ですらも、失っていることが当たり前である。という状況になります。これはつまり、現代よりも、死が身近であったということです。

 本書で改めてはっと気付かされたこと。現代における死は、だいたい恐怖あるいは(その裏返しとしての)感動と一緒に扱われています。死ぬことはとにかく恐ろしい。こんなにつらくて怖い。あるいは、こんなに感動的な死を迎えたよと、死が劇化される。コロナ禍における死も、特にメディアにおいては顕著に、恐怖あるいは感動と共に語られていたように思います。
 しかし、死が身近にあると何が起きるかというと、考えれば当然なのですが、それ以外の要素にも影響が表れます。たとえば、消費/貯蓄性向。本書では福澤桃介という結核(※)を乗り越えた実業家の言が引用されており、意訳すると「いつ病気になるのかわからないのだから、しっかり貯金しないといけない」。現代では保険屋さん以外からこんなセリフを聞きませんが、これを実業家が発しているということに重みを感じます。被雇用者だけでなく起業家側も、健康不安や死の可能性を抱えていた、と。現代の起業家からそう言ったことが聞かれるのは、かなり稀ではないでしょうか。
 ※全く余談ですが、この前亡くなったうちの祖母が、コロナってなんだ?ってことをあまり理解できていなかったそうで、母が「結核みたいなもんや」と言ったら、至極納得していたそうです。

死の身近さがもたらすもの
 自分や家族がいつ死ぬかわからないな、というifルートがそれなりに現実味を帯びているのだとしたら、死がもたらすものについて、色々と考えないといけません。単身者なら、後悔ないように散財して生きようって思うのかもしれませんし、家族がいる人なら、家族が困らないように稼いでおこうと思うはず。「終身雇用を前提としてきた日本企業が終身雇用を止め始めているので」みたいな言説(ちなみにこれは部分的に大嘘)も、定年までに死なないことを前提とした議論です。
 俺は定年までに死ぬかもしれないな、とか、社員が年齢に関わらず死ぬだろうと予測されていたりするなら、企業や従業員の行動も変容するでしょう。すなわち、死が身近にある社会では、人々の消費性向・貯蓄性向・キャリア観・仕事観などが、そうでない社会とは異なっているのではないか。ここがまず序章において、なるほどと思わされた、本書の鋭い指摘です。

 さてこのように本書では、ユニークで示唆深い例を多用しつつ、戦前の日本を分析し、現代に活かそうとします。曰く、

「コロナ前」の状態と異なり、新型コロナウイルス感染症による死の可能性は確かに存在している。(中略)この意味で、「コロナ前」に比べれば、死は身近になっただろうとはいえるだろう。
より重要なことは、感染症などによる死の可能性というのは文字どおりの死だけでなく、病気により仕事を辞めざるを得なくなる、あるいは(中略)解雇されるというような将来におけるより大きな不確実性を伴うという点である。(p. 19)

 つまり、戦前の日本を振り返る意味とは、以下のようなものになります。コロナ後の日本は、きっと、少なくともコロナ前よりは死を身近に感じる社会になる。自身や家族の健康上の不確実性がより増大するようになる。そのとき、我々はどうなると予想され、どうなるべきかという指針について考えようとすれば、「死が身近であった戦前の日本」を検討することに意義があるだろう、と。
 なるほどなあ、と思わされる建付けです。かつてビスマルクが「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったそうです。概ね同意ですが、ただただ昔を回顧すれば学びがあるわけでもありません。歴史に学ぶとは言うなれば比較事例研究であり、歴史を、どのような条件を揃えていかに現代と比較するかが肝になります。その点で、本書の「比較研究」の建付けは、現代に活きる優れた視座を提供しているといえます。

死に対する感受性
 最後に、私が思ったことについて。これは本書への批判や問題指摘というレベルのものでなく、つぶやき程度のものですが。何かと言うと、「コロナ後」において、本当に人は死を身近に感じるのだろうか?という疑問です。
 コロナ禍の喧騒は言うまでもありませんが、その喧騒も量も質も、また多様だったように思います。その人々がどのような立場を負い、どこに住まい、何に注目し、どのような状況を目の当たりにしたか(あるいはいかにも現代的なことに、目の当たりにもしていない言説をSNSで見かけたか)によって、コロナ禍をいかに捉えたかは、全く異なっているように思えます。コロナ体験とコロナ対応は、人によってあまりに異なっているだろうということです。社会の合意形成のためには、この多様性をまず捕捉せねばならない。
 そのうえで私個人の経験から語るのであれば(経験から語る愚者!)、「現代日本人、少なくとも若年層は、コロナ禍によって死を身近に感じてはいない」という仮説をもっています。

 そう考える理由は、まず、死者や健康を著しく損なった人の数が絶対的に少ないからです。既述のNHK調べによると、ここまでに重症者775人、死者14,000人超。コロナ禍ではインフルエンザによる死者が年間10,000人程度いたという事実が改めて騒がれましたが、「インフルエンザは人が死ぬ病気だ」という感覚は、ほぼ全ての人になかったものだと思います。かつ、現状での死者はやはり基礎疾患のある方や高齢者に偏っている。「元々健康上の不確実性が高い人が確率通りに亡くなっている」と言うに妥当でしょう。
 もちろんこれは、ネガティブでもなんでもない、むしろポジティブな事実です。日本の医療が優秀であり、特に貧困層を含めた万人に行き渡っており、また医療関係者の文字通りの決死の働きによって被害を抑えたという裏付けによって、我々は「死を身近に感じずに済んで」います。

 一方で、卑近な、まさしく卑近な感想ですが、コロナ禍以降、啞然とするような経験が少なからずありました。私は職務上、学生くらいの年齢の人と接する機会が多いので、コロナ禍をめぐっても、ときに頻繁に若年層とのコミュニケーションをとりました。その率直な感想は、「彼ら彼女らのほとんどは、なぜ世間がコロナでこんなに騒いでいるのかほぼ理解していない。理解する気もない」です。
 私がたしなむ「居合道」の稽古をするうえで、体育館を借りて色々と感染対策をして、稽古に来た学生にも同様の感染対策の意図と意義を綿々と講じたのですが、それを聞いたうえで何人かの学生は、稽古後にみんなでご飯を食べに行ったりしていました。正直なところ落胆したのですが、学生のほとんどは「自分の健康が害されるかもしれない」「身近な人の健康を害するかもしれない」という懸念をほとんど持っておらず、殆どのリアクションは「なんかみんなゆうてるから意味わからんけど従っとこう」であり、ええとこ「大学に怒られるのが怖い」くらいの感覚しか、持ち合わせていませんでした。これはあくまで小さなサンプルであるが、私が経験した事実でもあります。そして、社会経験の浅い、まだまだ子どもっぽい学生であるからこそだとも言えると同時に、社会人は違うだろうと言い切る自信は私にはありません。

 要は、コロナと死を、全く関連付けていない。あるいは、死に対して考えることが、「恐怖」とあまりにも短絡的に紐づけられている一方で、経済や人間関係といった他の要素にはほとんど結びついていないのでないか?と感じています。
 コロナ禍では、ヒステリーや短慮からとしか思えない騒動がいくつか見受けられました。それらについて話す中で、コミュニケーションした学生の中に「お寺の子」がいたのですが、その発言が非常に印象的でした。「みんな死ぬのが怖いのでしょうね」。なんと達観した発言か。お寺さんは確かに、現代で最も死を身近に感じる職業のひとつでしょうし、寺の子に育てば、いつも死を身近に感じてきたと推察されます。そのお寺さんからすれば、死の恐怖から大暴れする世論が、いかにも死を知らない人々の行動にみえたことでしょう。ちなみに彼女は、私の意図を非常に高度に理解していたように感じました。
 予測の域を出ませんが、現代、少なくともコロナ前の日本は、死を全く身近に感じない、あるいは感じることを隠そうをしてきたように思います。そうした死の隠蔽は、もちろんメリットもありますが、デメリットもある。さらには、死を恐怖や感動といった情動としか結びつけられなくなっている。我々が生きていくうえで死を考慮するならば、単なる恐怖や情動だけでなく、経済システムや企業の雇用、キャリア観などと結び付ける意味があるというのが、本書の最も核となる主張の一つです。しかし、私の経験が杞憂でないのだとしたら、本書のような良書がいくら実のある提言をしても、「本当は身近に迫っているはずの死を感じられない、不感症社会」になりかねないのでないでしょうか。

 本書は、既に述べたような枠組みで、過去の知見をコロナ後の社会に活かそうとする良書です。しかしその意を汲み取り、コロナ後の社会を形作ろうとするうえでは、読み手の主体的な感受性が欠かせないのだということを改めて感じました。死は複雑怪奇で崇高で、とても個人の理解に及ぶような現象ではないと思うのですが、生と一体にある、身近であらざるを得ない現象です。その死への感受性を高めることが、本書の意義を理解する第一歩なのかと思いました。
 ちなみに、ここまででまだ序章の話しかしていません(!)。続きはこれから書いていくことになるかと思っています。

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