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すすけたガラスのひかり―『エゴン・シーレ展』にて

夜中、英語日記で感想を書いた『エゴン・シーレ展』。
(その英語日記の本編はこちら
何故かその時はそのことを英語で書きたくなって、英語日記に記したけれど、やっぱりもう一回ふかくふかく書きたくて、この記事。

英語日記の本編にて、わたしはエゴン・シーレの絵(特に 年あたりの作品)に、『闇と光を感じた』と書いた。
絵の具を使ってキャンバスに描いている作品において、彼の筆使いというかタッチには色ムラがある。すーっと線を引いた時に、その後にこう…濃い箇所と薄い箇所が出来ている。いい例えが思いつかない…。

わかりやすいのは、展覧会のポスターにも掲載されていた『母と子』。
背景は黒く、もしくは焦げ茶。でも、筆の痕がしっかり残って、色ムラがある。
わたし、あれを見た時、『すすけたガラスを通る光みたいだ』と思った。
茶色く汚れて、すすのかぶったセピア色のガラスを、指でつーっとなぞってみて、指の跡が残る。そしてそこに日光がさしたときのような。
すすは闇、セピア色に光る日光は光。
暗いけれど明るい。明るいと言っても決してまばゆい明るさじゃなくて、闇をまぶされた明るさ。

もちろん『母と子』以外にも、そして焦げ茶以外の色にも、それは見られた。
やっぱり、同じことを思った。

この展覧会には、エゴン・シーレと同年代の画家たちの作品も色々紹介されている。
特に、彼が影響を受けたクリムトの作品がいっぱいだ。
でも、たしかに彼はクリムトから影響を受けたけれど、やっぱり違う。
クリムトには燦々煌々としたまばゆさがあって、そしてエゴンはそうじゃなかった。彼のひかりは、すすけている、と感じた。
見ていて、どっちもすきだと思った。違いがなにより面白かったし、影響していてもやっぱりクリムトはクリムト、エゴンはエゴンだった。
その人がその人らしく、絵に生きていた。

彼のすすけたひかりは何故だったんだろうか。
彼の生い立ちから?奔放さから?作品作りへの苦悩?
記憶も少しずつ薄れつつあるのでなんとも言い難い。

でも、彼のすすけたひかりは、わたしを魅了した。…わたしが矛盾したもの大好き人間だからなのもあると思うけれど。
でもやっぱり、あの『すすけたガラスのひかり』は、たしかに彼の、彼だけのものだった。


追記。
ここまで書いてHPを見てみたら、あの作品―『母と子』は、明らかに指を使って書いている、と記載があった。展示室にそんな説明あったかな…見逃していたかもしれない。
すすけたガラスを指でなぞって云々は、意外とあたって…た?





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