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わたしにとって短歌をよむということ

この間、プロフェッショナル~仕事の流儀~という番組の、俵万智さんが出演している回を見た。
わたしはとってもしがない短歌詠みで、しかも俵万智さんはわたしが短歌の世界にとびこむきっかけとなった人で、たまたまテレビをつけたらそれがやっていて、見るしかないと思って見た。
ことばをじっくりじっくり吟味してつむぎだす彼女の姿勢に、とっても心を打たれた。

でも、今日はその感想じゃなくて。
あの番組を見て、わたしにとって短歌を詠むってどういうことなんだろうかとここ数日考えている。

番組内で、短歌を詠む若者が少し紹介されていて。
そのインタビューの中で、要約すると短歌はすごくきれいなものなのだと言っている人が居た…気がする。ここらへんとてもうろ覚えなので、勘違いがあったら非常に申し訳ない。
わたしは少なくとも、それを見て、それは少し違うなと思ったんだった。

わたしにとって短歌をよむ、というのは、ぐるぐる頭の中を巡ることばたちを、例えば網を振ってみたり釣り糸を垂らしてみたりその他様々な方法でどうにか捕まえて、それを鍋に入れて、ぐつぐつごぼごぼ煮詰めて、やっぱり違うなとなる。それでまた苦心してことばを捕まえて、煮詰めて、また違う、そうじゃない、と思って、どんどんことばたちの中に溺れていく。それはすごくすごく苦しくて、その数多のどろどろした苦しみの果てにやっと生み出された残骸が短歌なんだ。

でもたしかにそれはきれいで、黒く煮詰めたどろっとしたもののはずなのにきれいで、『すごくきれい』という言葉そのものは大いに同意できる。
ただ、必ずしも純度100%で、素直にきれいなものじゃないのだってわたしは思ってるし、そう言いたい。

短歌がきれいなのは、自分の中で散々煮込まれ続けた苦悩が、吟味してこだわりぬいた、自分にとっての理想のことばであらわれるから。
どうしようもなく真っ黒な感情や過程がきらきらひかることばで表現されるそのちぐはぐさや矛盾が、短歌をきれいにさせているんだと思う。

…ただ、これはあくまでも詠み手から見た意見だ。
わたしは短歌集を見る、つまり読み手になることも当然ある。その時そんなことは思わない。ただただ目の前の短歌を前にして、きれいだと思うばかりだ。
読み手から、詠み手のこの苦悩は見えない。片鱗として垣間見ることはあるかもしれないけれど、でも見えない。
だから読み手は、詠み手の苦悩がきれいなことばであらわれるから云々みたいな視点で、短歌をきれいだとは思わない。

ただ、やっぱり無意識化というか、知らず識らずのうちに、短歌をきらめかせているのは詠み手の苦悩との矛盾、なのかもしれない。そういう効果がもしかしたらはたらいているのかも…なんて、わからないけれど。
でも、そんなことを思った。

そして、詠み手として、それら一連の、詠み手と読み手をつなぐ過程―読み手も知らず識らず、詠み手の苦悩ときれいなことばの矛盾によって、短歌をきれいだと思うのかもしれない―という密やかなそれもまた、すごくすごくきれいだと思った。


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