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108 山から見える風景

春風が心地よく陽がやわらかかったので、洗濯物をどっさり干したあと車で山に行きました。ほとんど車で登って、ちょこちょこっと自分の足で頂上まで行く気楽な山登りです。

登った山は、頂上らしきところに電波塔があって、その付近に木のベンチ二つと岩がいくつかある山です。木はまだまだ冬仕様、草も茶色くなって風にからからと吹かれています。

私以外には三十代くらいの男性と老夫婦、それから親子がいました。

三十代くらいの男性は、なんとベンチで眠っていました。
ひだまりの中、すやすやと気持ちよさそうに寝息も立てず眠っています。
ベンチの近くには茶トラの猫もいて、あくびをしていました。

老夫婦は、おしゃべりをしている様子はありませんがにこにこしていて、立って景色を眺めています。
帽子にリュック、ウインドブレーカー。メーカーやデザインは違うのでしょうが、お揃いを着ているように見えます。立ち姿もどことなく似ていて、長年連れ添った二人ならではの時間をまとっているようです。

男の子と女の子を連れたお父さんはわいわいと楽しそう。
男の子が「ねこさんいるよ!」とベンチに向かって走り出しましたが、なにかに躓いて転んでしまいました。女の子(おそらく男の子のお姉さん)はやれやれ、といった表情で知らんぷり。お父さんはあわてて男の子に寄り添います。

私は岩に腰かけて、そこから見える景色を見ていました。
そんなに標高のある山ではありませんが、遠くまで街が見渡せます。

この景色は、いつからこの景色なんだろう。
街は常に変わり続けているんだろうけど、大きく変わったのはいつからだろう。
あんなに高いビルが並びはじめたのは、いつからなんだろう。

足下を見ると小さな、小さな野花が咲いていました。
名前がわからない濃いピンク色の花。昔、蜜を目当てに食べたことがあるような気がします。

暮らしている街で、この花を見なくなったのは、いつからだろう。

そのとき、「うわぁ」と泣き声が聞こえました。
転んだ男の子が状況把握をして痛みを感じ、泣き出したのでしょう。
わぁわぁとぐずぐずが混ざった泣き声が静かな山の中に響きます。

私は幼いころ、転んでもあまり泣かなかったそうです。
泣かずに自分の傷をじっと見つめていた。
母が「痛かったね」と言った後も泣かずにいたそうです。

きっと、あのころから人前で泣くのは苦手だったのでしょう。

この山に来たのは、一人になれると思ったからです。
桜も花も咲いていない、それほど高い山でもない。でも、街からは離れられる。
この季節に他のひとがいるとは思わなかったのです。

音も立てず、かすかな風が私の頬をなでました。
髪がすこし揺れるくらいの、淡い風。

ふと近くに立っている木を見ました。
おそらく桜の木で、立派な幹から太い枝や細い枝が伸びています。
まだまだきゅっとかたい、生まれたてのつぼみをたくさんつけています。
ずっと見ていると、太い枝もわずかに揺れていることに気がつきました。

こんなに太い枝でも風が吹けば揺れる。
木は、風をきちんと受けて揺れるべきときには揺れているのね。

迷うこと、悩むこと、過去の失敗を思い出して苦しむこと、泣きたくても泣けないこと。
そんな心の揺れは、はずかしいことではないのかもしれません。

「ほら、大丈夫。そのうち治るよ」
遠くでお父さんの声が聞こえます。
「早く行こう。次に行こう」
女の子の声も聞こえます。

大丈夫。次に行こう。

老夫婦の声(おそらく、ご主人の声)も聞こえます。
「いい日だなぁ」

そして、親子の足音も老夫婦の足音も遠ざかっていきました。
小さな山の頂上は、しんとして木と風の気配が濃くなっていきます。
雲が流れる音さえ聞こえてきそうです。

そういえば、と振り向いたら、ベンチで眠っていた三十代くらいの男性がむっくりと起き上がるところでした。
「あ〜」
とあくびをして、伸びをしたあと
「ふぅ」
とため息をついて、頭をかきながら山を降りていきました。
いつの間にか、猫もいません。

休憩が終わりました。
みんな、それぞれの生活に帰っていきます。
それぞれの足で、ときどき転びながら。

風がそよそよとやさしく吹いています。
きっとまた、細い枝も太い枝も揺らしているのでしょう。

さぁ、私もそろそろ山を降りましょう。
ぐっと足に力を込めて立ち上がりました。

にぎやかで悩みと迷いが混在する、私の生活へ。

陽が照るくだりの山道は、やっぱり茶色の草だらけ。
横を見ると裸の木がたくさん立っています。
葉を全て落とした木の凛とした姿は、立ち姿のお手本のようです。

途中、なにかが見えたような気がして足を止めました。
木がたくさん生えている中、目をこらすと三つ四つ花をつけている桜がありました。
せっかちな桜なのか、早咲きの種類なのかはわかりません。
でも、確かに薄桃色の花をつけています。

風に揺られ続けたかたいつぼみも、いつか花開きます。
もう何週間かしたら、この山も一気に華やぐことでしょう。

いい日だな。
そう思いながら春に向かう空気の中、山を降りました。



今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


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