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128 雲のような

むしむしと暑くなる日々。
電車から降りて職場まで歩いて五分。
それでも、会社に入るまでの間にじんわりと汗をかく季節になりました。
周りを歩く人も小型の扇風機を持っていたり、ハンカチでしきりと汗を拭っていたり。

なんとなく、早歩きになっている気がします。

ふと、視線を感じました。
視線の方にぱっと顔を向けると、二年前仕事で知り合った男の子がいました。
高校は二年前に卒業しましたが、浪人することを決意して卒業したので、その後どうなったか気になっていた男の子です。

男の子は電話中で誰かと話していましたが、確実に私を見ていました。
私は、彼に話しかけたくて、話を聞きたくて、ほんの数十秒ですが、声をかけようかどうか、とてもとても迷いました。
でも、電話中のところを邪魔するのもなぁ…と思い、軽く手を振って通り過ぎました。
男の子はほんのわずかに会釈してくれました。

会社まで歩きながら、少し後悔しました。
聞きたいこと、たくさんあったのに…。
もしかしたら、聞いてほしかったかもしれないのに…。


彼は、英語が飛び抜けてよくできる子でした。
模試の結果を私に見せては「ね、長文満点でしたよ」とにこにこしながら報告してくれていました。

しかし、古文が苦手で、ついつい得意な英語に力を入れがちでした。
「古文もやらなくちゃ」
と声をかけても「わかっているんですけどねぇ」とにこにこ言いながら、英語の問題集を広げていました。
それでも、こつこつと古文に取り組んだのでしょう。
秋の模試では、古文の点数もしっかりと取れるようになりました。
この調子でいけば、第一志望に合格できる。
彼は、やる気に満ちあふれていました。

冬はきちんと寒くなりました。
入試の時期は、いつも冷たい空気が吹いています。

彼は、本番で現代文と日本史をごっそり落としてしまい、英語では9割以上点数をとりながら不合格となりました。

第二志望の大学も不合格でした。
彼が報告をしてくれたとき、私は言葉を失いました。

そして、彼は滑り止めで受験していた大学に進学するかどうか、悩んでいました。
私はなにも言えませんでした。彼はこう言いました。
「先生に何度も言われたけれど、僕ってツメがあまいんですよねぇ。だから、来年挑戦したとして、うまくいくかなぁ」
彼は笑っていましたが、私には泣いているように見えました。
私はこう言いました。

ほんとうに行きたいところはどこなの?
五年後十年後に後悔しない選択をしてね。
そして、自分で決めたことなら、浪人するにしても進学するにしても、未来の自分に誇れる一年を過ごしてね。

その後、彼は私に電話をしてくれました。
浪人しますわ。覚悟もちゃんとしましたよ。ははは。

いつもにこにこしていた男の子。話し方の軽さはそのままでしたが、決心は固いようでした。

私は、彼になにを聞きたかったのでしょう。
やはり、「どうだった?」でしょうか。
この二年、どうだった?

マスクをしていて、顔の半分が隠れているのに、私を見つけてくれた男の子。
男の子と言っても、もう二十歳になるんですね。
2000年生まれの二十歳。

不意の再会に、わずかな苦味の混ざったあたたかな思いが湧き上がって、思わず上を見ました。雲がたっぷりあるけれど、真っ青な空。空が青いだけで、なんでこんなにうれしくなるんだろう。

そして、視線を落として周りを見渡すと、やっぱり人ひと人。
小さな扇風機を持っている人、ハンカチでしきりに汗を拭う人。

この名前のわからない人たちにも、物語があるのでしょう。
なんでもない様子で歩いているようですが、苦い気持ちやなつかしい思い出、笑ってしまう出来事、言葉にすると思わず涙がこぼれてしまうような思い、かたい決心…そういったものを大なり小なり抱えています。そして毎日は過ぎていきます。
そのときそのときで、さまざまなスピードで。

電車から降りて職場まで歩いて五分。
短い間に起こった雲のようにはかない、そんな出来事でした。

今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


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