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「美しい」とは何だろう。

生きるにあたって、しばしば自分が考えてみたい「問い」とは何だろうと考えている。

少し前は、「死に向かって生きるとは?」であったが、最近持っている関わりを手放すと決めてからは、

◇「美しい」とは何だろう。
◇ 命が「ヒリヒリする」仕事って。

主にこの2つのことを考えている。

ふと、ずっと書いていないnoteを起こして文章を書こうと思ったのは、三軒茶屋のキャロットタワーから見る夕日が美しいと感じたから。
(26階への展望へは朝から夜いつでも訪れることができ、綺麗な街並みや風景をみることができるおすすめの場所です。)

なぜ、「美しい」ということの根源を辿ろうとしているのか。
それは僕自身が美しいと思えるモノたちに心を動かされ、生きる糧となっているからだろうと思う。
そして、それは単純に形や色の造形からくるものでなく、時に反対語とされるような「汚い」ものからも感じる時があるからだ。
ポジティブ(陽)の環境だけでなく、ネガティブ(陰)の中にも触れることがあるそんな感情(?)である「美しい」には、どっちつかずな矛盾をはらんでおり、中庸の要素があることに興味を持ったのかもしれない。

じゃぁ、「美しい」はどんな時に感じるのだろうか。
シーンも対象もバラバラである。目に見えるものもあれば、見えないけども感じる瞬間もあるだろう。

夕日や街並みのような風景を指すこともあれば、人の容姿に使われることもある。誰かが生み出す物語の中や音の世界で生まれることもある。時には、ゴミ捨て場のような汚れた場所であっても見出すのかもしれない。

もちろん、それらは一人一人の価値観に左右されるものであり、必ずしも共感を得られるものとは限らない。
「喜怒哀楽」のように一部の感情に紐づくわけではないからこそ、個々人の色が出るし、時や場所によって移ろいゆくものであるから、より人間らしさを感じる部分にもなりえるのかと思う。

そんなことを考えつつ、インターネット上にはどんな言葉として表されているのか調べてみると、同じように問いを立てている人たちがいた。
検索ワードは、「美しいとは」。

まずは意味。
googleで調べてみると一番最初に出て来たのは次の言葉。

「目・耳・心に、うっとりさせる感じで訴えて来る。」

Oxford Languages

他にもgoo辞書やweblio国語辞書などにも複数の意味が載っていたが、形式美など、「きれい」と被るものも多く、個人的には、この表現がしっくりきた。

そして、いくつかのサイトを閲覧し、表し方として、心を惹いたのは次の2つの文章だった。

本はまだ読んでいないのですが、文章はNHK高校講座ラジオ学習メモのなかにて、一部があったので、そちらを拝読。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/r2_gengo/assets/memo/memo_0000000072.pdf

NHK高校講座

この文章の中で惹かれたのは、冒頭で表したかった陰陽のどちらにも「美しい」を感じることがある、ということが書かれていたから。

でもおそらく、「きれい」や「かわいい」や「気持ちいい」や「おいしい」や「うれしい」や「楽しい」や「あたたかい」に近いけれど、違う、もうちょっと抽象的な感覚として、僕の中にプログラムされていたのだろう。でも同時に、「怖い」や「すさまじい」や「悲しい」や「寂しい」や「痛い」、更には「気持ち悪い」や「汚い」や「醜い」の中にさえ、「美しい」ことがあるのを子どもの僕は知っていた。そうなるともう、「美しい」って、どういうことなのかさっぱり分からなくなる。
(中略)
必ず僕が何かとリアルに出会っていることに、出会った対象と対話していることに気がついた。それは、例えば木や土など、手にした素材だったり、誰かが作った芸術作品だったり、全く意味のない石ころだったり、もちろん人だったりもする。要は何でもいいんだければど、僕の心の底の方に、たぶん魂のような部分に、振動を与えるような何かだ。その対話によって、そこに物語が生まれる。

だから、これだけは言うことができる。一つの物語が生まれる場所に、一つ「美しい」があるんじゃないかと。何かと何かが出会って、振動が生まれ、さざ波となり、新しい物語が始まる。その生成の現場に「美しい」はいつも立ち会っている。喜びであれ、哀しみであれば、もっとささやかなものであれ、人の心を震わせる物語とともに「美しい」は生まれ、現れ、形になったものはまた何かと出会い、別の物語を生み出していく。

『美しいこと』赤木明登

そして、赤木さんが「対話」や「物語」という言葉で表しているように、これまでの積み重ねや紡がれてきたものの中に美しさがあるように、僕自身も感じていたからだと思う。

地層や油絵のように重ねられたことによって生まれる美しさがあるのだと。表に見える色や形だけでない、その深層にも目を向けてみるからこそ心動かされるもの。

そして、もう一つの文章では、哲学者の言葉や和洋の「美しい」の違いにも注目しながら、文が紡がれていた。

色あいについても、自然を制し土地を制してきた西洋では、明瞭な秩序、神聖なもののイメージ、本質が際立つ色ということで、赤・青・白のような対比色や反対色が「調和する色・均衡のとれた色」として好まれます。対して日本の場合はこの理論が当てはまらない、という実験結果があります。あるがままの自然を受け入れてきた日本人には、「重ねの色目」のように素材感や自然観を大切にし、うつりゆく自然を崇拝する精神があり、曖昧な変化、消えゆくものに美を感じる感覚が培われてきました。形あるものはいつか壊れる諸行無常の感覚や、不足の中の心の充足感や静寂の中に深遠な豊かさを表す”侘び寂び”といった感覚を「美」とするものです。

美しさのいろいろ/けいはんな記念公園「公園よろず手帖」

前述の積み重ねとはまた違った「儚さ」や「一瞬」にもスポットを当てられるような感覚がおもしろい。

感じ方は、人それぞれだけれども、その中には生まれ育った土地の文化や風習も関わってくる。そんな気づきも得られると、より「美しい」ということが抽象的でありながら、それでも多くの人が心を動かされるという点で同じように使う言葉であるということに興味が深くなってきた。

なぜ、「美しい」ということの根源を辿ろうとしているのか。
ここまで書いて、その理由のもう1つに、僕は自分が「美しい」と感じた瞬間を、自分にとって心が動く瞬間を誰かと共有したいし、その人を知るためにその人に現れる「美しさ」に出会いたいと思っているのだと気づいた。

これまで自分が美しいと感じた瞬間を思い返すと、誰かの想いが露見する時だったり、自分の中で揺らぎや発見を伝えてみたかったりする時でもある。

時に写真に撮ってSNSにあげるのもその一環なのかもしれない。
いつも伝えきれないなと思いながらも、自分自身の記憶に留めつつ、誰かに伝えたくなる。

そう思うと、
◇「美しい」とは一人で体現できるのか?
◇自分にとっての「美しい」はより自分なりの生き方を探る要素にもなるのだろうか?
という問いも生まれてくる。

そんなことをぐるぐると考えつつ、改めて日々を過ごしてみたいし、誰かと雑談の中で話してみたい。

なので、めんどくさく感じない時にでも、お付き合いいただけると嬉しいです。

あなたにとって「美しい」とは?



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