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『絶対』は存在しているようで、存在していない

『全人類に届け!』
タイトルだけで、そう思った記事を紹介。
(ちょっと、記事のリンクは最後に...ちょっと、僕の考えをかいています。)

僕の大切にしている考えの1つに、

「この世に、『絶対』であるものなんて、存在しているようで、存在していない」

というものがあります。

社会人になってから、「死」について感じたり、考えたりする機会が増えました。ある時、ふと「人は死に向かって生きている」なんて、言葉が浮かんできました。矛盾を孕んだ言い回しが好きで、今でも思い出す言葉です。

「いつかは死ぬ」「死んだら、骨以外目に見えるものは何も残らない」そんなことは、誰もが周知の事実であるはずなのに、生きている間は、お金やモノを求める。そう、よりよく生きるために。いづれは自分の手元から無くなるのに、求めてしまう。その欲求をもとにした生き方に、矛盾を感じ、かつ、人間らしさを見いだした気がします。

そんなことを考えていたら、
「人は矛盾を抱えて生きているんだ」
と思うようになりました。

人それぞれに、どこか矛盾や破綻を含んだ部分はある。
そんな中で、『絶対』なんて、断言できることは、あまりないんじゃないかなと考えるのです。

それに、『絶対』や『べき』は、時に他の可能性を捨ててしまうことにも繋がります。大きく変化する社会のなかでは、何がきっかけで物事が前に進むかは誰もわからないこと。断言してしまうのは、もったいないから、模索し続ける姿勢が大事だと思うようになりました。

なぜ、『絶対』や『べき』は、使われるのでしょう?

僕自身も、ふと口から出ることは多々あります。そして、その度に、「なんでそう思ったんだ?」と考えるようにしています。

そして、感じた共通項がありました。
その言葉の裏側には、その人自身の願望が含まれているだと考えます。
「こうなってほしい」「~したい・なりたい」という理想の状態を追い求めて、そこに至る道が「これだ」思えた時に出てくるのが『絶対』や『べき』なのかなと。

そのため、自分の意志を強く示したい時にはとても有効です。ただ、それはその人自身の中だけでの考えであって、周りの人は違う考えを持っているかもしれない。そんな中で、断言されると、入り込む余地を見いだせず、圧迫のように感じちゃう時もあるのかな、と思います。

だからこそ、『絶対』や『べき』だけで話すのはなく、その根本の願望や思いを伝えた上で、互いの状態を確認したり、認識を擦り合わせたりすることが、いい関係性を作っていく1つの方法だと感じています。

今、対人関係におけるニュアンスで文章を書きましたが、個人も同じだと思います。やはり、経験から、無意識のうちに身についている『絶対』や『べき』は存在するもの。その存在を認めた上で、自分の願望を再確認すると、自分にとって、もっとより良い生き方が見えてくるんじゃないかなと思います。

話は少し戻りますが、人はいつか死ぬのに、お金やモノを求めていると冒頭で書きました。

やはり、その欲求の裏にも、生きている間に実現したい幸せがあるのだと思います。

自分が自分として生きている、と実感できる幸せ。

その幸せを自分なりに気づけると、人生はもっと豊かになるんじゃないかと、僕はそう思います。

と、つらつらと書きましたが、やはり一部分の感覚は、この記事を読んでもらった方が、伝わりやすいと思うので、ぜひ、読んでみてください。笑

https://soar-world.com/2019/05/29/yusukesuzuki/

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