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魏志倭人伝の誤字:「邪馬台国」「景初三年」とは書いてない?

「239年、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣使」
ふみ(文)ださいね、卑弥呼より」

こんな語呂合わせで年号を覚えた人もいるかもしれません。

卑弥呼のことが書いてあるのは3世紀の「魏志倭人伝」という歴史書です。

ところが、魏志倭人伝には「邪馬臺(台)国」も「239年」(魏の年号で景初三年)も出てこないとしたら…。みんな日本史のテストで落第してしまいます。

今回は、そんな魏志倭人伝のお話です。


愛情を持って書き写されなかった倭人伝

魏志倭人伝は中国の陳寿[ちんじゅ](233~297年)という人が書きました。正式には『三國志 魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条』と言います。中国の歴史書である『三国志』の一部です(図表1)。

維基文庫サイトの構成を参考に作成

※『三国志』は横山光輝さんの漫画『三国志』(潮出版社)でもおなじみです。漫画『三国志』は明(1368~1644年)の時代にまとめられた『三国志演義』を基にしています。三国志演義は三国志の人物設定や出来事を書き換え、小説風に読みやすくまとめたものです。

実は、現在、僕たちが目にする魏志倭人伝は誤字が多いです。図表2の右端ピンク網かけのような個所が指摘されています。

何と、魏志倭人伝には、以下のように書かれているのです。

  • 「邪馬臺(台)国」ではなく、「邪馬壹(壱)国」

  • 「景初三年」(239年)ではなく、「景初二年」(238年)

※「壹」は「壱」の旧字、「臺」は「台」の旧字です。

誤字は著者の陳寿が間違えたわけではありません。

魏志倭人伝の原本は失われています。現在、僕たちが目にする魏志倭人伝は12世紀の印刷本です。中国の南宋の紹煕[しょうき]年間(1190~1194年)に刊行されたので「紹煕本」と言われます。

紹煕本が出るまで、三国志は書き写しを重ねて伝えられました。竹・木・綿布などに草書体で写されました。900年にわたる転写の過程でミスが起き、誤字が発生したのだと思います。

三国志の専門家である渡邉義浩さん(早稲田大学)は以下のようにコメントしています。

〇『三国志』は、陳寿が著してから、南宋(一一二七~一二七九年)で版本(印刷本)になる まで、約千年間の抄本(写本)の時代を経て伝わった
〇…東晉(三一七~四二〇年)の抄本が六種、西域より出土している
〇(その6種の抄本は『三国志』が)流布して間もないにも拘らず、現行の『三国志』と文字の異同がある。しかも、現行本の文字の正しい場合が多い
〇抄本の写し手は、人間であるから間違いを犯す。それも、興味を惹かない部分は誤りやすい
〇残念ながら、倭人伝は、愛情を持って写されていなかったようである

『魏志倭人伝の謎を解く』(渡邉義浩、中公新書、2012年)

この記事では、魏志倭人伝の誤字のうち、論争になることの多い「邪馬壹(壱)国」と、ほとんど論争にはなりませんが、「景初二年」について紹介したいと思います。

×邪馬壹(壱)国→〇邪馬臺(台)国

ほとんどの人は「邪馬台国」(やまたいこく)と覚えていると思いますが、紹煕本には「邪馬臺(台)國」という国名は出てきません。「邪馬壹(壱)國」と記述されています(トップ写真= Wikipediaより転載)。

紹煕本の「邪馬壹(壱)国」が正しいのか、通説の「邪馬臺(台)国」が正しいのかが論争になっています。

邪馬台国近畿説はもともとは「邪馬臺」の発音が「ヤマト」に近いということが根拠で始まった説だと思います。「邪馬臺」(ヤマト)が正しいのか、「邪馬壹」(ヤマイ)が正しいのかは、邪馬台国近畿説に影響します。

邪馬台国九州説の一部の研究者からは「邪馬臺(台)国はなかった」という説が出るほどです。

僕は魏志倭人伝の原本は、通説の「邪馬臺国」だったと思います。根拠は2つあります。

  • 12世紀に紹煕本が出るまで、魏志倭人伝は様々な歴史書に引用されているが、そのほとんどが「邪馬臺国」である(図表2を再掲します)

  • 後漢書に注釈を入れた李賢[りけん]が、「邪馬臺国」の記述について何の注釈も入れていない

歴史書では「邪馬臺国」と引用

歴史書は過去の歴史書の記述を引用することがよくあります。三国志は3世紀に書かれましたが、5世紀の後漢書をはじめ、その後の歴史書では「邪馬臺国」と引用されています。

もし、原本が「邪馬壹国」だったとしたら、後漢書、梁書、隋書などは著者がいちいち「邪馬臺国」に書き換えたということになります。そのようなことは想定しづらいです。

原本が「邪馬臺国」だったから引用でもそのまま「邪馬臺国」と記述したのだと考えるほうがはるかに理にかなっています。

特に隋書では「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」(女王の都は「邪靡堆」にある。すなわち、これは魏志の謂う所の「邪馬臺」なる者なり)と記述しています。魏志倭人伝が「邪馬臺」と記述していたとはっきり書いています。

12世紀に紹煕本が出て、初めて「邪馬壹国」という記述が登場します。10~12世紀の間に書き写された魏志倭人伝の写本で、転写ミスが発生したのだと思われます。 

後漢書の「邪馬臺国」を李賢はスルー

後漢書は7世紀に唐の皇太子だった李賢が詳細な注釈(注意書き)を入れています。

李賢は後漢書の「邪馬臺国」の記述には無言です。注釈を入れていません。もし、魏志倭人伝が「邪馬壹国」だったならば、李賢は後漢書の「邪馬臺国」について注釈を入れているはずです。

李賢が「邪馬臺国」をスルーしていることも、魏志倭人伝の原本が「邪馬臺国」だったことを裏づけています。

「邪馬臺(台)国はなかった」というのは間違いで、「邪馬壹(壱)国がなかった」というのが正しいということになります。

「臺」は神聖な文字とは限らない

ところで、「卑」弥呼、「邪」馬台国のように、中国は周辺の国を見下して、卑しいとされる文字を使うことがあります。これに対して、「臺」は宮殿を表すような神聖な文字だから、「邪馬臺国」という表記はありえないという説があります。

しかし、魏志全体を見ると、必ずしもそうとは限りません。以下のような事例があります。

使于綿竹築以為京観、用顕戦功
綿竹県*にを築いて京観**とし、戦功の顕彰に用いた
*益州の都市 **死骸を積み上げ、土で覆った塚

魏書巻二十八 鄧艾[とうがい=魏の将軍]伝

ショッキングな記述ですが、「臺」は単なる台という意味で使われています。これはもちろん、神聖な事例ではありません。

邪馬「臺」国も単なる音を表す文字として使われたのだと思います。

※この項目は2023/3/25追記

×景初二年→〇景初三年

紹煕本には、「景初二年」(238年)に卑弥呼が使いを送ったと書かれています。「景初三年」が通説とされていて、これにはほとんど議論はありませんでした。

根拠は2つありますが、その前に、ややこしい当時の東アジア情勢を見ておきましょう。

遼東半島・朝鮮半島をめぐる情勢

  • 2世紀末~ 遼東半島はこの地方の豪族である公孫[こうそん]氏(公孫度・康・淵の3代)が実質的に支配。後漢も魏も、韓・倭との関係は公孫氏に委任

  • 204年 公孫氏が楽浪郡(現在の平壌)の南部に帯方郡を設置。三国志韓伝では「倭韓遂属帯方」(韓・倭は帯方に帰属した)と記述

  • 220年 後漢滅亡、魏・呉・蜀の三国時代に

  • 233年~ 魏が公孫氏討伐に転換

  • 237年(景初元年)7月 魏の毌丘倹[かんきゅう・けん]が公孫氏を攻撃→失敗

  • 237年(景初元年)7月 魏の明帝[みんてい]が大船建造を命令→密かに楽浪郡・帯方郡を攻撃(海路)(図表3参照)

  • 238年(景初二年)正月 魏は司馬懿[しば・い]に遼東出兵命令(陸路)(図表3参照)。※司馬懿は後に西晋の基礎を築いた高祖宣帝

  • 238年(景初二年)6月 司馬懿が遼東に遅れて到達(陸路)

  • 時期不明 魏が楽浪郡・帯方郡平定(海路)

  • 238年(景初二年)6月 卑弥呼が魏に遣使?(仁藤さんの説)

  • 238年(景初二年)8月 司馬懿の攻撃により公孫氏滅亡(陸路)

  • 239年(景初三年)正月 明帝死去

  • 239年(景初三年)6月 卑弥呼が魏に遣使?(通説)

景初二年中の遣使は断定できない

さて、卑弥呼の遣使は「景初三年」という通説の根拠は以下の2つです。

  • 紹煕本が出るまで歴史書(梁書、日本書記など)での引用はすべて「景初三年」である(図表2を再掲します)

  • 公孫氏が滅亡する(景初二年8月)までは、公孫氏が窓口であり、卑弥呼は魏に直接、遣使はできなかったはずである

これに対し、纏向学研究センター(奈良県桜井市)が2022年8月に刊行した『纏向学の最前線』に、仁藤淳史さん(国立歴史民俗博物館)が反論を寄せています。

論文:景初2年朝貢説再論
筆者:仁藤淳史氏(国立歴史民俗博物館)

 ※2023/1/20に『纏向学の最前線』がPDFで公開されました。仁藤さんの論文は分割版3(p651-658)となっています。 

まず2つ目の根拠から見ていきましょう。

仁藤さんは、公孫氏滅亡以降でなければ、卑弥呼の遣使は不可能だったという説明について批判検討を加え、以下のように述べます。

〇(三国志韓伝によると)景初年間に、魏の明帝は密かに…海路から進軍させて2郡を平定したとある。この時期は明らかではないが、明帝の死去が景初3年正月であることからすれば、少なくともそれ以前のことである
〇(司馬懿による)陸路からの遼東への侵攻は、抵抗や長雨などにより遅延し6月にようやく軍勢は遼東に達したとあり、密かに行われた海路による2郡の平定よりも遅れた可能性が高い
〇楽浪・帯方2郡奪還直後に「諸韓国の臣智には…印綬を加賜…」とあることは重要である。すなわち…支配者交替の情報…を既成事実化し、韓国諸国の…支持を得る目的で周辺諸国に伝えられたことは間違いない
〇当然、すでに帯方郡に所属していた倭国…へも情報が伝えられ、郡への使者派遣が至急に要請されたことはまちがいない…。通説で想定されるような公孫氏の滅亡までの様子見は許されなかったのである。

『纏向学の最前線』「景初2年朝貢説再論」(仁藤淳史、2022年)

仁藤さんの説は「公孫氏が滅亡する(景初二年8月)までは、卑弥呼は魏に直接、遣使はできなかった」という江戸時代の新井白石以来の見方に対して、公孫氏滅亡前に遣使が行われた可能性を見出したものです。

当然、「景初三年」だろうと思われていたことに疑問を提示したのは、興味深いです。僕も景初二年中には遣使できなかったと言い切ることはできないと思いました。

 ただ、いくつかの疑問もあります。

  • 楽浪郡・帯方郡の平定時期が不明である。本当に公孫氏滅亡前に2郡が平定されたかどうかがわからない。可能性が高いとも言えない

  • 公孫氏の拠点であった楽浪・帯方郡が、魏に平定されて直ちに魏への窓口になりえたのか

  • 魏志倭人伝からは、卑弥呼が遣使を急いだとか、戦時中に遣使したような緊迫感が感じられない

  • 帯方太守(帯方郡長官)の名前が韓伝と倭人伝で異なる(以下の引用文参照)。そんなに短期間に太守が交代したのか

景初中、明帝密遣帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣、越海定二郡
(景初年間に、明帝は密かに帯方太守劉昕[りゅう・きん]、楽浪太守鮮于嗣[せんう・し]を遣わし、海を越え二郡を平定する)

三国志韓伝

倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏[りゅう・か]遣吏将送詣京都
(倭の女王は、大夫の難升米[なんしょうまい]たちを派遣して帯方郡に至らせ、天子に拝謁して朝見することを求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米たちを引率して京都[けいと=洛陽]に至らせた)

魏志倭人伝

結局、卑弥呼が景初二年中に遣使した可能性はゼロではないかもしれませんが、可能性が高いとも言えないと思います=どちらとも言えない。

後の歴史書は改竄ではない

仁藤さんは1つ目の根拠の歴史書での引用については、以下のように述べます。

〇2郡の制圧(6月以前)→卑弥呼の遣使 (6月)→公孫氏の滅亡(8月)という本来の時系列は、司馬懿の功績を顕彰するために
〇公孫氏の滅亡=2郡の制圧(8月)→卑弥呼の遣使(翌年6月)ということに(その後の歴史書では)変更されたと考えられる
〇このように変更することで東夷の朝貢再開が司馬懿の公孫氏滅亡による ことが効果的に説明される 

『纏向学の最前線』「景初2年朝貢説再論」(仁藤淳史、2022年)

つまり、梁書をはじめ、後の歴史書は、順番を改竄したというのが仁藤さんの説です。魏の実権を握り、西晋の基礎を築いた司馬懿の功績を讃えるためだというのが改竄の理由だとしています。

当時の中国では、卑弥呼のように、より遠方の王からわざわざ朝貢があることが、皇帝の権威を高めると考えられていました。

確かに、卑弥呼は2郡平定をきっかけに遣使しましたが、2郡平定は司馬懿の功績ではありません。司馬懿は2郡平定より遅れて公孫氏を滅亡させました。

卑弥呼の遣使だけを考えれば、公孫氏滅亡を2郡平定よりも前(または同時期)にしたほうが、司馬懿の顕彰にはなるでしょう。

しかし、そもそも魏にとって目の上のたんこぶだった公孫氏を滅ぼしたことのほうが、卑弥呼から遣使があったことよりも重要だと思います。司馬懿の功績は、公孫氏滅亡だけで十分であり、2郡平定→卑弥呼遣使がそれほど重要なことだったとは考えられません。

その後の歴史書で順番を改竄しなければならないほどではありません。歴史書での引用のとおり、通説の「景初三年」が正しいと思います。

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この記事では紹煕本の「邪馬壹(壱)国」と「景初二年」について紹介しました。他の誤字も含め、すべて通説のとおり、図表2のオレンジ網かけが正しいことは、その後の歴史書がほとんどオレンジ網かけのとおり引用していることで説明できると思います。

みんな、テストで合格できそうですね。

(最終更新2024/3/1)

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