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映画「ノマドランド」旅、そして生きるということ

私が30代に入ったばかりの頃、立て続けに祖父母が亡くなった。
「人はいずれ死ぬ」という、誰もが分かりきっていることに実感を持って生きるようになったのは、その時が初めてだったかもしれない。そして、その恐怖を自分が死ぬまで抱えて生きていかなければいけないのだ、と漠然と感じながら毎日を生きていくようになった。

どこまでも続く、乾いた広大な大地、淡いパープルとピンクのグラデーションに色づいた空。人々が働き、食べて眠る。
毎日をただ生きる姿そのものに人生の美しさと哀しさを垣間見たような気がした。

それは、私に「死は決して怖いものではないのかもしれない」ということを言い聞かせ、生きるとは何かということを問われているようにさえ感じた。

あらすじ

60代女性のファーン(フランシス•マクドーマンド)は、リーマンショック後に企業の倒産とともに長年住み慣れた企業城下町の住処を失い、最愛の夫も失い、ひとりキャンピングカーで暮らすことを選ぶ。
車上生活者(現代のノマド)として過酷な季節労働の現場を渡り歩く。その日その日を懸命に生き、行く先々で出会うノマドたちとの交流とともに、彼女の自由な旅は続いていく。実在のノマドたちとともに見つめる今を生きる希望を、広大な西部の自然と中で探し求めるロードムービー

この映画に登場するノマドたちは、身内の死、ベトナム戦争によるPTSD、孤立、思想的な背景、など、様々な理由で自らノマドであることを選び取った人たちである。

そこにはアメリカ社会の抱える雇用制度や、保険制度などのさまざまな問題も垣間見えてはくるが、だからといって決して「仕方なくこの生活を強いられている」人たちばかりでないことが非常に興味深い。

定住することを放棄し、誰かに看取られながら死ぬことを放棄し、自分の赴くままに、大地を移動しながら、たった1人で生き抜くことを選んだ人々の醸し出す覚悟は、決して私たちが想像するほど優しいものではない。

だが、それらと代償に選び掴み取った「自由」は何者にも変え難い心からの安らぎや、生きていくことの意義を与えてくれているようでもあった。

私は、異国を一人で旅するのが好きだ。  
初めてひとりで外国に訪れたのは中学生、13歳の頃だった。アメリカの西海岸にあるオレゴン州ポートランドという都市だった。
数週間の滞在の後、お世話になったホストマザーに、「ありがとう、さようなら」の言葉を言えなかったことを、私は何年も悔やみ続けていたことがある。

あれから20年以上経った今でも、つい昨日のことように思い出す出来事だ。

この映画に登場する「本当のノマド」たちは、旅先で出会った人たちに「さよなら」は言わないそうだ。
旅先で出会った彼らが再会することは、おそらくほとんどないのだろう。
だが、代わりにこの言葉を言い合うのだ。

「また、いつかどこかの路上で」

私の祖父母、アメリカで出会ったホストファミリー、これまで、私がたった一人で訪れ、旅先で出会った人々。

たとえこの世に生がなくとも、もしかしたらきっとまたどこかで会えるのかもしれない。
雄大な大地を前にした時、人間はとてもちっぽけだ。だが、だからこそ目の前にある喜びも悲しみもある意味では幻想なのかもしれない、そしてきっとあの人ともいつかどこかでまた会えるだろう、と思えてくる。 

私は、3月26日、映画「ノマドランド」の公開日にレイトショーで映画館に足を運んだ。

観終わった後、「これはオスカーを獲ってほしい」と(誰目線だ)強く思っていたのだが、今日、アカデミー賞授賞式でそれが現実に変わった。

アカデミー賞作品賞、そして監督のクロエ•ジャオは監督賞を、主演のフランシス•マクドーマンドが主演女優賞に輝いている。

近々、もう一度、映画館でこの美しい世界へと没入にしに行きたいと思っている。

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