映画 『WANDA / ワンダ』 たったひとりありのまま生きた女性の悲しい逃避行
ある時代、ある場所にいた破滅的で孤独なたったひとりの女性の人生を覗き込む。
アメリカのざらついた風景の中を走るブルーの車。
剥げかけたピンク色のマニキュア。
田舎の廃れたソフトクリーム屋と、冷め切った3つのハンバーガー。
お腹を満たすだけのビールとチップス。
誰かにもらった一本の煙草。
50年前、ある1人の女性が撮ったこの美しくて儚いロードムービーに、私は観るなりなぜか動揺を覚え、次第に強烈に引き込まれていた。
主人公ワンダは、女性のヒーローでもないし、社会の代弁者にもならない。
「ただ私はこうして生きている」という一人の女性の「生」と「魂」をただ描いただけだ。
それこそが、この映画が「宝石のような作品」と言われる所以なのかもしれない。鑑賞から数日経った今も、ふと彼女のことを思い出しているのだから。
ワンダには、人生の意義やアイデンティティがない。
夫が離婚したいと言うなら別れる。
自分の得意なことも知らないし、自分の考えもない。
お金もないし家族もない。
自分の子供にも興味はない。
その日を一緒に過ごしてくれる通りすがりの誰かに声をかけられるのを待っているだけだ。
だって彼女はそうすることしか、知らないから。
人生から何かを学ぶすべなんて、知る由もないから。
映画「WANDA / ワンダ」はただ客観的に、淡々と1人の女の数日間を捉えただけの作品だ。
1970年、主演のバーバラ・ローデン自身が監督脚本をつとめ16mmで撮られた映像が2012年に現代技術で復元された。
ジョン・カサヴェデスや、ケリー・ライカート、ソフィア・コッポラといった、インデペンデント映画作家に多大な影響を与えたのが、紛れもなくこの小さな映画であるという。
即興演技で撮られた会話中心で進むだけのある男との逃避行と、独特で突飛なカメラワークや人の眼差しを捉えた映像は、他に類をみない独特な空気と荒々しさとが内在した、たとえようのない唯一無二の魅力を持った作品だ。
まるで観る価値もないような他人の生活というものを目撃してしまった感覚に陥る。
彼女の破滅的で救いようのない生き方も、ひとつの美しい人生の形なのかもしれない、と私は観ている中で思っていた。
なぜなら間違いなく、私はこの彼女のことが好きだから。可愛らしくて愛おしい存在だと思えていたから。
決して良い人生とは言えないけれど、きっと彼女なりに生き抜いていくだろう。生き抜いてほしいと思った。
もし現代に生きていたら、彼女はコミュニケーション方面に問題を抱えていて、何かしらの病名がつくかもしれない。ケアや社会からの援助が必要だ。
欲や才能を持たないのではなく、「無知」で「適切な環境に置かれていなかった」というだけだ。
この、アメリカの田舎の廃れた郊外の町に住む人は皆、同じような生き方しか知らない人で溢れている。環境や教養で人生が変化することすら知る由もない。美しさや洗練さからかけ離れた暮らし。
故に彼女は、その場で出会う男たちに依存するだけの形で生きていく。
彼女の人生がいずれ好転することはあるのだろうかと考え苦しい気持ちになってしまった。
だが、ふと思うのだ。
なぜそういう人生をすべて否定しなければならないのだろうか、と。
なぜわざわざ現代に照らし合わせて、正解を求めようとする必要があるのか?と。
この作品は何もジャッジしないし答えも出さない。
まるでこの主人公ワンダが「ただこの時を生きているだけ」であることに呼応するように、「ただ撮っただけ」なのである。
女性の自立の重要性を描くわけでも、社会問題を訴えかけるわけでもない、1人のありのままの人生を描くことの、「誠実さ」がこの作品にはある。
だからこそ人間の「生」を強烈に感じ、その場の匂いや温度までが勝手に伝わってきてしまうのだ。
たとえ作品が意図していなくとも、生きる苦しさや抑圧や、人生のやるせなさが漂って消えないのだ。
この古くて小さな美しくも儚い映画を、私は今後の人生で何度も思い出すことになるだろう。
本当の宝物みたいだ。
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