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9/29の日記

誰かが別のステージに行こうとしていたり、転居などで状況が変わったりするときなどに、真の意味で心から祝福できる人が自分にはどれぐらいいるだろうかとふと思った。もしそれができなくなっていたら自分はきっと余裕がないのかもしれないし、もしかしたらその相手のことを大して考えていなかったのかもしれない。あるいは、ただほとんど多くの人間というのは、そんなふうに思ってしまうものだ、というだけなのかもしれない。


そんなことを考えているのは、自分がこの1ヶ月で少し変化があり、来月から環境が変わりそうであるからだ。遠回しな言い方をしたが、たまたま縁とタイミングが合いある会社でまた働くことにした。2021年の1月に完全に仕事を辞めてそれからはバイト程度の仕事だけ続けてきたけれど(と書いたけど自分なりに一生懸命働いていたんだからそんな言い方する必要ない。)
1年と10ヶ月近くぶりにもう少し働くことに決めた。理由ときっかけは単純でバカみたいだが勢いで車を買っちゃったので先のことを考えると色々足りなくなったのだ。それにそろそろ資金を貯めてまた外国にも旅に行きたい。色々と行ったりやったりしたい欲もまた、芽生えてきた。
それもこれもやはり長い休息があったからなのだろう。

新卒から走り続け転職や起業を経て仕事を辞めた2年前。どこかで見つめ直すタイミングだと思っていた。その期間にできていなかった夫との結婚式もしたし、これまでの数年間を取り戻すぐらい多くの本を読み映画を観てきたと思う。失いかけていた自分の大切なものをまた当たり前のものに戻すことができたことが1番の収穫だ。
でも不思議なもので、人間は(いや私は)、それもまたずっと続くものではないのだと気がつく。ようやく理想の何かを見つけた、と思いその生き方を続けてみても、世界が変化するのと同時に自分の生活もずっと一緒というわけにはいかないのだ。ようやく馴染んできたと思っていた矢先にまた変わろうとしてしまう自分がいる。
いつもそうだし、これからもきっとそうなのだろう。

今は狭間の時期なので期待と不安の真ん中にいる。また自分は失敗してしまうのではないか、また力みすぎてしまうのではないか。そんなことを考えてしまわなくもない。今の快適な暮らしや環境を手放してしまうことになるのではないだろうか。
いや、もし今のままでいたとしたって、それでもやはり何も変わらないなんてことはないんだと思う。

「Fumiは飽き性だからその不安だって、続くなんて誰も思っていないよ。」


今は夫の軽い言葉を少し信じてみたいと思う。

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