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自分の声を録る理由


Podcastで映画番組をはじめてちょうど5ヶ月が経った。

パンデミックの初期の頃にも自分の番組をやった事はあったが、その時にはまだnoteをやってもいなかったしTwitterすら鍵アカウントでコソコソとやっていただけだった。オンラインにつながりがあったわけでも、自分という存在をどこかの誰かに知ってほしいなどと思ってもいなかった。だからこそ誰が聞くがわからないPodcastなど、当然続かなかった。

改めてはじめて5ヶ月、有名アカウントなどと比較したら非常に小さい規模かもしれないし、まだかけだしで、更新しては聞き返し後悔するばかりの日々だが、当初に比べたらかなり多くの方に聴いていただいていることが数字上わかる。これは本当に励みになっている。

ふと、なぜ自分はこれを続けているのだろうかと考えてみた。

先に言っておくとPodcastでマネタイズなど一切出来ない。自分でビジネスをやっているわけでもないのでその宣伝になるという目的なども全くない。しかも声を聞かれるのは恥ずかしい。だから何のためにやっているのか?と思う人もいると思う。自分ですらそう思う。


私にとってはもちろん映画がこの世のなによりも好きだというのは一つにはある。今では映画は自分の一部だと自信を持って言えるぐらい大事な存在だ。だから話すことでその時の思い出を自分のために記録しておきたい、というのはあったかもしれない。

もう一つは、「話す」ということに興味があるからというのもある。それはひとえに自分が普段コミュニケーションに自信がないからである。鏡の中にうつる肌を毎日化粧水をつけながら凝視するように、自分の話し方やクセを自分で客観視する絶好の機会だと気がついたのだ。こんなのは芸能人や、アナウンサーでもない限り滅多にないはずだ。特に以前の対談の時の自分の相槌や語り口には穴があったら入りたいぐらいの反省点がたくさんあった。でも、これだってPodcastをやっていなかったら、一生気がつかなかったと思う。

ようやく本題だ。「とりつづける一番の理由はなにか?」

多分それは私なりの反抗であり抵抗なのだろう。

以前から何度も私はエッセイに自分自身が数年前にちょっとした人生の挫折をしたことについて書いた。詳しいことはもう書かないが(過去について書く段階はもうすぎたのだ)、私は、あの時の自分を少しだけ救いたいのかもしれない。

人に自分の声を聞かれるのは正直にとても恥ずかしいし自分でも何度も穴があったら入りたいと思う瞬間がある。きっと文章とは思っていた人と違った、と心が離れてしまった人も少ながらずいるかもしれない。

でも私が過去の失敗の中で最も後悔していることは「誰かにとって都合の良い自分」「世間にとって立派な自分」はがりを追い求めてしまい、結果的に自分自身を見失ったことだ。


自分はこういう人間だ、と声を出し好きな映画について全く飾られていない自分の言葉で語ること、それが、私なりの反抗だと思っている。

自分にとって過去に一生懸命取り組んできたこと、自分なりの形で人生をより良くしたいと思い邁進してきたこと、同じ志を持った仲間だと思って共に頑張っていたと思ってきたあの時間。

全てが一瞬で幻になり、プライドも仕事も仲間も、何もかも失ったあの時から3年が経った。

あの頃の私に「何にもならないのに、毎週映画のPodcastを更新しているよ」と言ったら、きっと驚くに違いない。


人生に無駄なことはひとつもないというが、むしろ無駄だとか特に意味がないと思えることを楽しんでいることほど、素晴らしい瞬間はあるだろうか。

生産もしないし効率性もないのに「ただ好きだからやる」という情熱こそ、私があの時取り戻したかった感情だったはずだ。

これから先この番組がどうなるかは分からないが、今は語りたい物語がある限り、継続していきたいと思っている。少しずつでも聴く人にとってためになるものにしたいし、耳心地の良い話し方を身につけたい、という今まで思いもしなかった欲も出てきている。

でも、本当の欲を言えば、かつて同じ志を持ったビジネス仲間だった、もう別れてしまったあの人たちに、いつか自分の知らないところで自分の声を聴いてもらえたらいいなと思っているかもしれない。


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