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キリストは人を縛り付けるのか、自由にするのか

 「クリスチャンはハードワーカーでなければならない」と牧師はよく言った。「イエスと弟子たちも休む暇がなかったと書いてあるだろう」と。「それに十字架による贖罪は、たとえるなら何十億もの負債を帳消しにしてもらったようなものだ。そこまで大きな恩があるのに漫然と生きるのはもはや罪だ。真のクリスチャンは、神のために身を粉にして働かなければならない」

 だから私たち信徒は時間を惜しまず働いた。牧師に言われたことは何でもやった。特に私は「何でも屋」だったので、HP制作とか機材購入の値引き交渉とか、集会の飾り付けとかお菓子の買い出しとか、レクリエーションゲームの司会とか罰ゲームの実演とか、とにかく何でもやった。休店日の印刷業者に突入して朝から値引き交渉した(させられた)こともある。失敗して牧師に叱責されたことは数知れない。そして当然ながら何の報酬もなかった(奉仕は「返しきれない負債を神に返すようなもの」であり、何の見返りも求めるべきでなかった)。

 私は慢性的な寝不足で、食生活もめちゃくちゃだったせいか、いつも体調が悪かった。ある日突然腰椎ヘルニアを起こし、動けなくなってしまったが、それでも休めなかった。それくらいの犠牲は牧師に言わせれば「クリスチャンとして当然」だった。神が日夜働いているのに、どうして信徒が休んでいられるだろうか? 信徒が自分の都合で休んで、それで神の働きを止めてしまったら、取り返しが付かないではないか、と。

 聖書知識も神学知識も十分でない若い信徒が、その状況にどうやって異を唱えられただろう? 今もって分からない。ハードワーカーでなければ神に喜ばれない。それどころか罰せられてしまう。その恐怖感や罪責感は、信仰者としてこの上なくリアルだった。

 しかし今ならその歪さが分かる。私たちは罪責感を持たせられていたのだ。その教会において神は「許す神」でなく「許さない神」だった。「愛する神」でなく「罰する神」だった。身を粉にして働かない(働けない)者は受け入れられず、価値のない人間とされた。キリスト教の正統教義を掲げながら、現場では牧師が都合よく教義を歪めていた。私たちは搾取されていた。聖書が搾取と暴力の道具にされていた。そしてそれに気づくことができなかった。気づかないように仕組まれていた。

 今も同じように苦しんでいるクリスチャンがいるかもしれない。罪責感を持たせられ、不当に働かせられ、搾取され、しかしその構造自体に気づかない信徒がいるかもしれない。そんな全ての人に伝えたい。そんなふうに罪責感を持つ必要はない、と。身を粉にして働き、体を壊し、それでも休めないなんてキリスト教信仰ではない、と。あなたは実は神のためでなく、牧師を満足させるために働かさせられているのだ、と。

 そしてどうか自由になってほしい。キリストはあなたを教会に縛り付けるためでなく、自由にするために来られたのだから。

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