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スリとお城とお嬢さん

女の敵は……?

 サラ・ウォーターズの『荊の城』を読んだ。

 小説の原題は『Fingersmith(スリ)』だが、日本語版では『荊の城』となっており、2016年の映画版では『お嬢さん』となっている。『スリ』は主人公スーザン・トリンダーを、『荊の城』は主要な舞台であるブライア城を、『お嬢さん』はブライア城の令嬢モード・リリーを、それぞれ指している。スーザンとモードの愛憎がブライア城で絡み合う物語なので、3つのタイトルがちょうど補完関係になっていて面白いと思った。偶然だろうか。

 19世紀ロンドンに住むスリのスーザンは、<紳士>と呼ばれる詐欺師にある計画を持ちかけられる。田舎の古城に住む世間知らずな令嬢に結婚詐欺を仕掛けて、財産を騙し取ろうというのだ。莫大な報酬に惹かれたスーザンは侍女になりすましてブライア城に侵入するが、そこには壮大な罠が仕掛けられていた。

 映画版ではこの「壮大な罠」がかなり省かれている。映画しか見なければ当然気づかないが、小説を読んだら「全然違う話じゃないか」となってもおかしくない。

 映画版でもう一つ気になったのはモードの心理描写が(『お嬢さん』というタイトルになっているにもかかわらず)弱い点だ。小説で描写されているモードの性悪さや逞しさ、スーザンへの複雑な思いなどがよく伝わってこないので、あの結末に至る彼女の心の変化がよく分からないまま終わってしまう。

 小説はそのあたりが詳しく書かれている上、映画にはないドンデン返しが用意されている。冒頭で『スリ』はスーザンのことで『お嬢さん』はモードのことだ、と書いたけれど、その対比自体も揺らぐ。またスーザンが精神病院から抜け出すシーンも、映画版は随分あっさりしているが、小説はハラハラドキドキの脱出劇になっている。映画を見ていまいちスッキリしなかった人には小説をお勧めしたい。

 『荊の城』は女性が抑圧から抜け出す物語だが、そのために(当初は)別の女性を犠牲にしようとしていて、「女の敵は女」というデマを再生産してしまいそうに見える。しかし女性を抑圧しているのが男性であり、その男性に踊らされる形で別の女性に敵対せざるを得なくなっている姿が描かれているのを読み落としてはならない。女の敵は女なのでなく、また男なのでもなく、自分の特権を利用して抑圧してくる誰かなのだ。

いばらに閉じ込められる福音と、決して閉じ込められない人たち

 クリスチャンは「いばら」と聞いてルカによる福音書8章の「種を蒔人」を思い出すかもしれない。種が蒔かれても、いばらで覆われていると芽が出ない、というたとえ話だ(転じて、福音の種が蒔かれても心がいばらで覆われていたら意味がない、という意味になる)。本作の主要な舞台となるブライア城(briar=いばら)も文字通り「荊の城」で、それはモードを縛り付け、外に出させない事実上の監禁装置として機能している。

 しかし本作はいわばスーザンとモードが数々のいばらの突き破って抑圧から抜け出す話なので、福音書を飛び越して「いばらに縛られない」姿を見せている。

 考えてみたら、「いばらに覆われて芽が出せない福音」はなんとも弱々しく見える。福音に全ての人を救う力があるのなら、いばらなど簡単に突き破ってグングン生えて、逆にいばらを覆い尽くすくらい生長してほしい。聖書の言葉がいばらに覆われて身動きできなくなり、逆に弱い立場に置かれているスーザンとモードがそれを打ち破るなら、聖書に何の意味があるのか、とキリスト者ながら思ってしまった。

※ちなみに映画版は韓国で作られた。20世紀の朝鮮半島に舞台が移し変えられている。

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