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賛美を取り返したい 第1回

「正しい賛美」はどこ?

 ながらく賛美を歌えなかった。

 大好きだったワーシップソングの数々は今も耳の奥に流れている。無意識にくちずさむことさえある。けれど礼拝の場では歌えない。「こんなの嘘だ」と思ってしまう。「自分は賛美を歌うことで神を冒涜しているのかもしれない」
 賛美が何なのか、私は分からなくなっていた。

 私は教会でながらくドラムを叩いていた。それが神に与えられたポジションだと信じていた。「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた」(詩篇16篇/口語訳)とある通り。

 フルバンドが大音響で奏でるワーシップソングの、盛り上がる時のドラムのフィルインをご存知か。バスとスネアとフロアを8分音符で同時にドドドドド……と叩くのが定番だ(当時は定番だった)。曲によってはそれが何小節も続く。ギターは高音で鳴き、ベースは地響きのように唸り、ボーカルは叫び、そんなこんなの音の洪水にのまれ、興奮やら歓喜やら何やら、もはや自分が叩いている感覚さえなくなる。私はそれを「聖霊の満たし」とか「聖霊による勢い」とか考えていた。最高の瞬間だった。ところで聖霊による勢いってなんだよ。

 教会での騒動のあと、ながらく離れていた「普通の暮らし」がしたくて、カラオケに行ったりライブに行ったりした。いつでも行ける距離にオープンしたのに一度も行っていなかったディズニーシーにも行った。歌って気持ち良くなったり、ライブ(もちろん一般のアーティストのライブだ)で盛り上がったり、海の妖精たちのダンスに合わせて体をくねらせたりしながら、私ははっきり悟った。

 「教会で賛美するのと何も変わらない高揚感じゃん……」

 なんと「聖霊の満たし」とか「聖霊による勢い」とか思っていたものは、カラオケで歌ったり、みんなで一緒にダンスしたりすることで得られる「気持ち良さ」と一緒だったのだ。教会やら礼拝やらの「聖性」ではなかった。特に教会が嘘と不正と暴力にまみれていたと知らされたあとで、どうやったら「聖性」なんて信じられるのか。

 あるいはこれは私の教会だけの問題なのかもしれない。だから他の教会にも行ってみた。どこかに「正しい聖性」や「正しい賛美」があるのかもしれない。そこで賛美に力を入れている教会をいくつか選んだ。上目線なチョイスで申し訳ないけれど、背に腹はかえられない。

伸ばした手の先にいるのは?

 都心の某教会は大きなステージを持っている。200人は収容できる会衆席は体育館みたいなフローリングで、パイプ椅子が整然と並べられている。照明は暗く、隣の人の顔さえよく見えない。英語があちこちから聞こえてくる。あれ、英語礼拝だったっけ。

 時間になると、ステージ中央がスポットで照らされる。その光の輪の中に若い女性がゆっくり進み出る。ピアノの演奏が始まる。メロディアスな旋律。女性はマイクを持っていない方の手を挙げ、目を半ば閉じ、うっとりした表情。

 女性がきれいな声で歌い始める。私はすぐに気分が悪くなって顔を伏せた。教会にいた頃なら「素晴らしい」「ハレルヤ」と言っていたはずの賛美の姿が、ひたすら気持ち悪かった。過去の自分、うっとりした顔でドラムを叩き、場を盛り上げ、それで神を称えていると思い込んでいた自分が気持ち悪かった。

 私が称えていたのは神ではなかった。
 私の目線の先にいたのは神ではなかった。
 そう思い知らされる最悪な時間を、薄暗い会衆席の片隅で私は過ごした。

 YouTubeで好きだったワーシップの動画を見た。シンガーたちは手を挙げ、涙を流し、胸を叩き、震え、叫び、それぞれの感動を表現している。演奏は完璧だし、照明やスモークなどの演出はハイクオリティ。撮影にも編集にも隙がない。日本でここまでやるのはまず無理だろう。しかし、私は「気持ち悪い」と思ってしまう。クオリティの高い気持ち悪さだ。ねえ、その伸ばした手の先にいるのは誰? 本当に神様?

 完全に賛美を見失っていた。捜索願いを出せばいいだろうか。
 以来、どの教会のどの礼拝でも、私は賛美を歌わなくなった。その時間が過ぎるのをじっと待つようになった。
 もはや賛美と無縁な人生を送るしかない。そうとしか思えなかった。(続く)


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