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匿名発信なんて無責任だ、という無責任

実名か匿名か、を越えて

 おそらくどの業種でもどの業界でも、匿名発信に比べて実名発信の方が信憑性が高いと考えられている。顔と名前を出せばいい加減なことは言えないが、匿名なら何でも言えてしまう、と考えるのが一般的だからだ。確かに昨今、匿名の誹謗中傷やデマが問題になっており、厳罰化が進められている(その手の情報開示請求が一つのビジネスモデルにさえなっている)。そうした背景が「匿名発信は無責任」「実名顔出しで言うべき」という言説に繋がっているだろう。

 しかし実名顔出しでとんでもない嘘や欺瞞を垂れ流す人もいる。匿名で切実な問題を訴える人もいる。必ずしも「実名=真実」「匿名=嘘」ではない。実名vs匿名の二項対立でばっさり切り分けるのでなく、個々のケースを丁寧に見ていくべきだ。特に権力勾配の存在を忘れてはならない。現に実名顔出しで酷い差別発言を繰り返す権力者たちを、私たちは毎日のように見ているのではないか。

 一方で立場の弱い、力のない人たちが実名顔出しで被害を訴えると、二次被害に遭う可能性が高い。特に注目された場合、実名を出しているだけに逃げ場がなくなってしまう。関係者に被害が及ぶのを恐れて実名を出せないこともある。そうした場合は(少なくとも初動においては)匿名で訴えるしかない。その選択を「無責任」とは誰にも言えない。

 ある組織についての内部告発も、多くは匿名で行われる。実名で告発したらどんな目に遭うか、想像に難しくないだろう。

 しかしキリスト教界にも、いまだ「匿名で責任ある発言なんかできない」という認識が蔓延している。重要なことなら実名顔出しで、ちゃんと対面して言うべきだ、と。しかし重要だからこそ実名顔出しで言えないこともある。対面が有利に働くのは対面強者だけだ。

 SNSの普及でようやく匿名で語る「声」を手に入れ、社会に向けて問題を発信し、同じような境遇の仲間たちと連帯できるようになった被抑圧者が、どれだけいることか。どれだけ救われ、どれだけエンパワメントされてきたことか。本来ならキリスト教会がそういう「声」を積極的に拾い上げるべきなのに、むしろ排除しているとしたら酷いことだ。

 SNSで普段から「品行方正に」振る舞うクリスチャンが、本音をぶちまけるために別アカウント(匿名アカウント)を作っていることもよくある。匿名でないと吐き出せない膿があるのだ。

 対面/実名での対話の重要性と、ネット/匿名での発信の重要性がそれぞれある。どちらかではない。前者しか信用しないで済ませられるのは、抑圧や差別、実名で語ることの危険性と無縁だからだ。後者でないと安全を確保できない人たちの、切実な「声」の存在を知ってほしい。「匿名発信なんて無責任だ」と言うこと自体が、実は無責任なことなのだ。

実名で告発させない力

 キリスト教界で残念ながらよくあるのが、教会での被害を訴える匿名者に投げかけられるこれらの言葉だ。

「文句ばかり言わないで建設的な話をしなさい」
「ネットに書くのでなく、教会に直接訴えに行きなさい(匿名でなく実名で行動しなさい)」
「キリスト者らしく平和を作るようにしなさい」
「そんな言い方では聞くものも聞けません。もっと言い方に気をつけなさい」

 これらの言葉は告発者への助言でなく、むしろその口を塞ぐものとして働いている。告発者に耳を傾ける姿勢でなく、むしろ排除しようとする姿勢なのは明らかだ。私個人も同様の言葉を幾度となく投げつけられてきた。キリスト教会だけでなく、様々な分野の被害者・告発者が日夜このような理解のない言葉を投げつけられ、二次被害を受けている。助けられなければならない人々がその手を踏みつけられ、蹴落とされている。

 この現状を見れば、「実名では告発できない」と判断するのはおかしなことではない。「実名で告発しろ」と迫る人たちが、実のところ実名での告発を封じているのだ。

 確かに匿名で、酷い言葉を使ってキリスト教会をなじる人はいる。しかしそれを「クレーマーが文句を言っているだけ」と安易に断じることもできない。傷つけられた被害者は、その痛みや怒りのゆえ、激しい言葉を選択せざるを得ないことがあるからだ。彼らが攻撃的だとしたら、まず彼らが攻撃されたことを思い出さなければならない。

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