見出し画像

ただノーと言おう(Just say no)

南青山を歩く

 表参道駅のA5出口から地上に出る。目の前は南青山。さっそく銀色のベンツが路駐していた。次いで犬を散歩している近隣住民らしき人が目に入った。あのシワシワの短パンは2万円、グチャグチャに落書きされたデザインのTシャツは5万円くらいかな。早々に南青山の洗礼を受けた気がした。

 しばらく行くと、コムデギャルソンの無駄に広いガラス張りの店舗が見えた。バラバラのマネキンが転がっているのはそういうディスプレイなのだろう。「ねえ、なんでこれ片付けないの?」と初めは思った。

 その先にはエイリアンの巣みたいなプラダがある。エントランスには黒スーツの要人警護中みたいな男が足を広げて立っている。『AKIRA』の金田なら「なんだオメー、葬式帰りか?」とか言うだろう。もちろん私にはそんなことを言う勇気どころか、あそこに入る勇気すらない。『嫌われる勇気』は未読だが、『高級店に入る勇気』があったら読んでみたい。

 こういう街を歩くと経済格差を体感する。そのせいかちょっと居心地が悪い。もちろんそれは、ここにいる誰かが悪いわけではない。

 そんな自分の貧乏人根性を持て余しながら、目当ての古着屋さんに入る。古着屋と言っても1枚300円のTシャツは置いていない。店内をざっと見て回ると、最低価格は8000円くらい。今でこそこういうお店で買い物ができるようになったけれど、キリスト教会で頑張っていた頃は到底無理だった(最もひどい時はその日に食べるものさえなかった。1枚300円のTシャツさえ買えない)。当時はこういう「お金持ちの街」を、「罪深い」とか「霊的に堕落している」とか「富に仕えている」とか言って見下げていた。その根性こそ見下げたものだと今は思うけれど。

 さて、店内で品物を眺めたり、店員さんとお喋りしたり、試着して「素敵ですね」と褒められてどうせお世辞でしょ! と内心思ったりすること30分。残念ながら良い出会いがなかったので、店を出た。ちなみに古着屋巡りの醍醐味は、自分が着るべき一点物との出会いだと思っている(その意味で古着屋は運命が試される場所だ)。

 そして来た道を戻りながら、またエイリアンの巣みたいなプラダを見て、葬式帰りみたいなスーツの男を見て、バラバラのマネキン置き場みたいなコムデギャルソンを見た。犬を散歩する人はもういなかった。

数十年越しに気づく

 帰りは渋谷駅まで歩いた。しばらく来ないうちに渋谷ストリームなる建物ができていた。ベトナム料理店や蕎麦屋がサイバーパンクな代物に見える。聞くところによると、この界隈の公衆トイレにはハッテン場的な機能もあるそうだ。それを聞いて思い出したのが、学生時代に某駅で遭遇した男の痴漢たちだ。私はずっと彼らのことを単純に痴漢だと思っていた。けれどもしかしたら「待ち」だったのかもしれない? という数十年越しの気づきを得た。

 この世界はまだまだ知らないことで満ちている。教会で聖書を読んだからといって、世界の真理が分かるわけではない。そんな当然のことが、教会にいた頃は分からなかった。

 カルト化教会を離れて、ようやく自分の生活を取り戻した。自分の人生に帰ってきた。大袈裟でなく、そう感じた。

 カルト被害の厄介な点の一つは、被害に遭っている最中に「これはカルト被害だ」と認識できないことだ。どんな経緯であれ、どんな事情であれ、もともとが自分自身の選択であれ、「自分の意に沿わないことを嫌々させられている」としたら、カルト被害を疑った方がいい。そして嫌なものは嫌だと、はっきり言った方がいい。

 そういえば古着屋さんで、面白い缶バッチを見つけた。

Just say no

 「ただノーと言おう(Just say no)」
 嫌なことにはノーと言おう。ノーと言って、どうにか生き延びよう。

追記1


 青山って英語にしたらブルーマウンテンだね! コーヒーみたいじゃん! と気づいたけれど、恥ずかしいので誰にも言っていない。ここに初めて書く。

追記2

 隅から隅までお高い街かと思った南青山だけれど、古着屋さんの並びのお惣菜屋さん(?)はカレーライスが500円だった。三角巾を被った年配女性が切り盛りしていて、メニューは手書き。そこだけ下町みたいで不思議だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?