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イタリアの修道院で繰り広げられる『舞姫』だった『薔薇の名前』

 ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』を読んだ。

 14世紀の北イタリア、ベネディクト修道院で若い修道僧が謎の死を遂げる。別件で訪れたパスカヴィルの修道士ウィリアムと、その弟子アドソが調査に当たる。立ち入り禁止の文書館が事件の鍵を握っていると突き止めるものの、様々な妨害にあって調査は難航。その間に新たな殺人が次々と起こってしまう。謎を解くため、ウィリアムとアドソは禁じられた文書館に侵入する。

 教皇ヨハネス22世の時代の、フランシスコ会とアヴィニョン教皇庁の「清貧論争」があちこちに顔を出す、歴史ミステリーだ。舞台が修道院だけにちょくちょく神学論争が起こったり、異端審問や黙示録の解釈が語られたりと、本筋と直接関係ない話に結構なページが割かれている。キリスト教とその歴史にある程度理解がないと難しいかもしれない(それだけにクリスチャンには面白いかもしれない)。

 特にクリスチャンに読んでほしいのは、異端審問にまつわる部分だ。異端審問は正統教義を守るための(純粋な動機からの)信仰的な取り組みでなく、むしろ政敵を陥れるための策略だったり、立場の弱い者を都合よく排除するための方便だったりした。また「娘」の扱いから分かる通り、(異端審問に端を発する)魔女狩りは非常に短絡的かつ一方的な暴力だった。キリスト教の負の歴史の一つとして、クリスチャンは肝に銘じておくべきだと思う。

 「娘」(名前すらない)の扱いは本当に酷い。たまたま居合わせただけなのに嫌疑をかけられ、状況証拠だけで魔女認定されてしまう。そしていとも簡単に死刑を言い渡される(しかも言葉が通じないから娘は何が起こっているか分からなかったはずだ)。1986年の映画では「娘」は最終的に自由の身になっているけれど、小説では誰も助けず、一夜の関係を持ったアドソでさえ(葛藤を見せるとはいえ)見て見ぬ振りをする。彼女は結局どこかで火炙りにされてしまったのだろう。立場の弱い者に対して、当時のキリスト教は(今もかもしれないけれど)恐ろしく残酷だった。

 アドソと「娘」の関係も疑問だ。アドソの語りによれば(本文はアドソの回想録の形を取っている)、「娘」の方から迫ってきて、彼は抵抗できず関係を「持ってしまった」ことになっている。しかし食べるために修道僧に身を売るほど追い詰められた「娘」が、ただアドソが「若く美しいから」というだけで、何の見返りもなく関係を持つだろうか。現実的に考えにくいと思う。むしろアドソが無理やり迫って、なのにそこだけ改変して自分に非がないように書いた、という方が納得できる。

 そして小説でも映画でも、最終的にアドソは「娘」を捨ててしまう。その点で森鴎外の『舞姫』みたいな話だなと思った。『薔薇の名前』は出版された1980年から今日に至るまで読まれ続けているけれど、性差別の観点でだいぶ問題があると思う。もちろんそれも含めて参照すべき歴史的資料なのかもしれないけれど。

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