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ウィリアム・ギブスンの『エイリアン3』の方が良かった?

癒された寂しさ

 ウィリアム・ギブスンが書いたものの採用されなかった『エイリアン3』の脚本第1稿の、ノベライズ版(パット・カディガン著)を読んだ。長いあいだ日の目を見なかった、幻の作品だ(以降「ギブスン版」と呼ぶ)。

 前作『エイリアン2』で植民惑星<LV426>を脱出した兵員輸送船<スラコ>が、原因不明の故障でコースを外れ、宇宙ステーション<アンカーポイント>に収容される。そこは共産圏の<ロディナ・ステーション>と冷戦状態にあった。<ウェイランド・ユタニ社>はさっそく<スラコ>に残っていたサンプルを使ってエイリアンの兵器化を試みるが、それは新たな悪夢の始まりだった。という筋書きだ。

 ヒックスとビショップとニュートがちゃんと生きているのがとにかく嬉しい(リプリー演じるシガニー・ウィーバーは当初出演しない方向だったので、彼女だけは昏睡状態から覚めない設定になっている)。実際に製作された『エイリアン3』ではヒックスもニュートも冒頭で死んでしまうので、彼らが生きて会話を交わしているだけで満足だ。しかもヒックスとビショップが主役として大活躍する。人間と人造人間のバディものとしても面白い(全体として『エイリアン4』の雰囲気に近いと思う)。『エイリアン3』を劇場で見たときのあの寂しさが、少しは埋められたような気がした。

印象が変わった『エイリアン3』

 しかしギブスン版を読み終えて、これが採用されなかったのは仕方ないのでは? とも思った。結局『エイリアン2』の延長線上にあり、続編というより後編みたいな話だからだ。1作目の『エイリアン』が密室ホラー、2作目の『エイリアン2』が戦闘アクションだとしたら、3作目には別の要素が必要だったと思う(スタジオ側もそういう旨のことを言っていた)。その点で見るとギブスン版は『エイリアン2』の焼き直しであって、結局同じことをしているだけじゃないか、という評価になってしまうと思う(エイリアンの大量発生→施設の爆破→必死の脱出劇、という構図を繰り返している)。

 もう一つの難点は、主役がリプリーからヒックスに変わった点だ(これは前述の事情によるもので、ギブスンのせいではないけれど)。『エイリアン』シリーズは弱く力のない女性と目されていたリプリーが、男たちに助けられるのでなく、むしろ男たちを助け、困難な事態を打開し、リーダーシップを発揮していくのが見所の一つだ。なのにヒックスが主役になったら、結局「男がヒーロー然の活躍をして女や子どもを助ける」というありきたりな話になってしまう。それは本当に見たかった『エイリアン3』じゃないな……と私は正直思った。

 ギブスン版の面白いのはそういうストーリーの大枠でなく、サイバーパンク系のギミックだ。パワーローダーをラジコン操作してエイリアンと戦わせるとか、宇宙ステーションのアンニュイな風景とか、ID代わりに肌に刻印されたバーコードとか、「人間を守る」ようプログラムされたビショップが人類を守るためにステーションの人間を犠牲にする選択をするとか、そういう細部を映画に取り入れてくれれば良かったかもしれない(バーコードだけは実際に取り入れられた)。

 ギブスン版を読んだことで、映画版『エイリアン3』の印象が少し変わった。やはりリプリーの存在は欠かせない。そして流刑惑星で囚人たちが宗教的な生活を送っているとか、武器が全くない状態でエイリアンと鬼ごっこをするとかは、前2作にない要素を追求した結果だと思う。デヴィット・フィンチャー監督の画作りや雰囲気作りも良い。(『エイリアン3』は低評価だったけれど、私は割と好きだ。)

 ただ残念なのが、やはりニュートを死なせてしまったことだ。1作目と2作目の間で実の娘を亡くしたリプリーが、『エイリアン2』でニュートに出会う。終盤でニュートを命懸けで救出するのは、「もう絶対に娘を見捨てない」という意志の表れだったはずだ。そのニュートが『エイリアン3』の冒頭であっさり死んでしまうのは前作に対する冒涜にさえ見える。ただニュートを失ったことが、終盤のリプリーの身投げに繋がると考えることはできるかもしれない。

 その点で見ると(リプリーにとって)『エイリアン2』は再生の物語、『エイリアン3』は喪失の物語と言える。それはそれでまとまっている。ギブスン版は結果的にそういうリプリーの物語を断ち切って、新たな「男の物語」に書き換えようとした試みに他ならない。

「悪魔」はエイリアンか、人間か

 キリスト教視点で見れば、エイリアンは聖書の「悪魔」にたとえられるかもしれない。人間にとって絶対の敵であり、災厄であり、何としても退けなければならない存在だからだ。

 ギブスン版で言及されているが、エイリアンは殺戮のためだけに存在する。文明を築こうとせず、互いを仲間として認識せず、殺戮を遂行するためなら自分の生命も顧みない。「悪魔」と同じで、目的は人間を餌食にすることなのだ。

 しかし『エイリアン』シリーズ全体を通して言えることだが、本当に悪いのはエイリアンを利用しようとする人間たちの方だ。エイリアンはその道具に過ぎない。そして前日譚である『プロメテウス』や『エイリアン:コベナント』から分かる通り、エイリアンを生み出したのは人造人間のデヴィッドであり、そのデヴィッドを作ったのは人間たちだ。つまり人間が間接的に、自分たちにとって最悪の脅威となる「悪魔」を作った、というのが真相なのだ。

 これは示唆的だと思う。というのは私は常々、聖書に登場する「悪魔」は本当は人間のことだと考えているからだ。「悪魔」はしばしば私たちクリスチャンの「悪」の肩代わりをさせられてきた。悪いことをしたクリスチャンは時に「悪魔にそそのかされた」とか「悪魔に誘惑された」とか言い訳する。全部「悪魔」のせいにするのだ。

 では人間は本来「悪」ではないのか。人間に「罪」はないのか。「悪魔」がいなければ人間は善良この上ない存在になれるのか。答えは否だ。むしろ人間こそ最低最悪の「悪魔」になり得る。聖書の「悪魔」はそういう人間の暗い本性を投影したものだと私は解釈している。人間さえいれば世界は勝手に悪くなる。「悪魔」など全く必要ない。

 ギブスン版『エイリアン3』を読んで、やはりそのことを思った。人間が最悪の事態を起こし、多くの人間を犠牲にする。しかしそこから人間を救おうと努めるのもまた、人間なのだ。そこに幾らかの希望がある。

ウィリアム・ギブスン版『エイリアン3』

 ちなみに、これはギブスンでなくパット・カディガンの文章のせいかもしれないけれど、シニカルな言い回しが多過ぎて、読むのが若干不快だった。終盤の方の生存者たちの会話は読んでいて恥ずかしいくらいで、もうお腹いっぱいだった。やはりこれは映画化しなくて良かったと個人的に思う。

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