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「終末」を乗り越える希望

※キリスト教と「終末」とサブカルチャーと80年代と2000年代。そこに希望はあるのか。約3600字。

人為的な終末

 80年代の映画を最近いろいろ見返している。

 『グーニーズ』や『スタンド・バイ・ミー』や『インディ・ジョーンズ』といった王道作品は当時のワクワクがよみがえって良い。新たな発見もある。一つネガティブなものだけれど紹介すると、どの作品にもメインキャストに黒人がいない。そしてアジア人はごくわずか。白人の白人による全人種のための映画なのだ(当時はそれが当たり前の感覚だったと思う。一部の例外を除いて)。

 当時のホラー映画も大好きだ。『死霊のはらわた』、『13日の金曜日』、『エルム街の悪夢』、『バタリアン』……。80年代はホラーの黄金期でもあった。クリスチャンの一部にとって絶対NGのジャンルだけれど。

 「B級ホラー」という言葉があるが、そのチープさが私は逆に好きだ。安心して見られる。一つ紹介したいのがケヴィン・ディロン主演の88年の映画『ブロブ/宇宙からの不明物体』。アメリカの田舎町に飛来したスライム状の物体が、人々を飲み込んでどんどん巨大化していく。宇宙から飛来した異星生物だと思われたそれは、実は政府の研究機関が極秘に開発した生物兵器だった。機関の手に負えなくあったブロブは街を飲み込むほど大きくなるが、住人たちの活躍でなんとか撃退される。

 キリスト教的に興味深いのは最後のシーンだ。重度の火傷を負いながら生き残った牧師が、(教会が半壊したので)野原の天幕で説教している。「世の終わりが近い」という不穏な内容だ。説教後、不安に駆られた信徒が牧師に尋ねる。「それ(世の終わり)はいつ起こるのですか?」
 「すぐに起こる」と答える牧師の手には、ブロブの欠片が入った容器がある。

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 牧師はわずかに生き残ったブロブを隠し持っており、それを使って「終末」を自ら引き起こす、と仄めかすのだ。彼は劇中、ブロブの襲撃を「預言の成就だ」と語っていたので、ブロブは撃退すべきものでなく受け入れるべきものだと考えたのだろう。そういう人間がブロブを手にしてしまい、かくして「人為的な終末」が到来する。

リセットしてやり直す

 「人為的な終末」で思い出すのが94年の傑作RPG『真・女神転生Ⅱ』。
 大洪水後の近未来。東京跡地に建てられた「TOKYOミレニアム」のコロシアムで活躍する主人公は、実は「メシア・プロジェクト」によって生み出された人造救世主だった。その目的は「人為的な救済」だが、それは一旦世界を破壊すること(人為的な終末)でもあった。

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 大ヒット映画『マトリックス』シリーズにも同様のコンセプトが見られる。
 機械が人間を支配するディストピアな未来。ネオは預言された救世主だと目されていたが(我々観客もそう信じていたが)、実はマトリックス世界を定期的にリセットするために、機械によってコントロールされた機械仕掛けの救世主だった。計画的な破壊と創造の繰り返しが、逆説的に世界を安定させる、という発想だ。プレイが上手く行かなかったステージを一旦リセットして(自ら死んで)最初からやり直す、というゲーム感覚にも近い。

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 旧約聖書の「ノアの方舟」のくだりで、神は大洪水で人類を地上から消し去る。人間たちの出来が悪いからリセットしたのだ。この「上手く行かないからリセットしてやり直す」という心情は神も人間も同じなのかもしれない。上記の『ブロブ/宇宙からの不明物体』の牧師がブロブを使って「終末」を意図的に到来させようとするのも、住んでいる世界が気に入らなかったからかもしれない。

 このように終末思想は、「終わり」と同時に「やり直し」の要素を含んでいる。「終わり」は終わりでなく、再スタートなのだ。キリスト教的にも、「世の終わり」の後に「千年王国」が始まる、とする解釈がある。悪がはびこる「この世」より神が支配する「千年王国」の方がクリスチャンにとって望ましいので、当然ながら「世の終わり」は歓迎されるのだ。

絶望か希望か

 終末思想はいつの時代も語られてきた。今の時代もそうだ。
 80年代は東西冷戦の真っ最中で、「核の冬」という言葉がよく使われた。核戦争が起こると大気は灰で覆われ、放射能の雨が降り、生物はほとんど死滅する。当時はその手のドキュメンタリーや映画やアニメが量産され、幼かった私は心底恐怖した。B級ホラーは作り物の恐怖(と笑い)を提供してくれたが、「核の冬」は本物の恐怖でしかなかった。

 その20年前の1962年、キューバ危機が世界を「終末」の恐怖に陥れた。アイルランドのある田舎町では「世の終わり」が真剣に語られ、「マリア様が助けにきて下さる」と信じるカトリック系住民が少なくなかったという。

 半分ネタだったかもしれないが、1999年は「ノストラダムスの大預言」で盛り上がった。同年は世紀末であると共にミレニアム(千年紀)の終わりでもあり、余計に「世の終わり」感が強かったのかもしれない。結局何も起こらなかったのは、周知の通りだけれど。

 そして2022年2月、ロシア軍がウクライナに侵攻した。このまま東西対立が激化して第三次世界大戦に突入してしまうのでは、と危惧する声もある(2022年3月現在)。核兵器使用の危機感もあり、「終末」を叫ぶ声が上がっても何ら不思議ではない(キリスト教界隈では既に上がっている)。

 もっとも「世の終わり」を言いたくなる気持ちも分からないではない。そこには「こんな酷いことが起こるのは世の終わりだからに違いない」という嘆きが含まれていると思うからだ。人はあまりに辛い現実に直面すると、全てを「終わり」にしたくなる。終わってほしいと願う。その意味において「終末」の到来は一つの救い、希望となり得る。破壊的な希望だけれど。

「終末」を乗り越える希望

 冒頭で80年代の王道映画に黒人俳優が起用されるのは稀だったと書いた。それから30年経った2012年の映画『クラウド・アトラス』を最後に紹介したい。

 本作は6つの異なる時代、異なる場所で起こるエピソードを描いている。それぞれ関係ない出来事に見えるが、前の時代の主人公が残した手記や手紙や録画を、次の時代の主人公が手に取り、感化され、行動を変えていく、といった形でゆるやかに連結している。また各時代の主人公の体には同じ流星型のアザがあり、これは「魂は時代を越えて流転していく」という輪廻転生の概念を示唆している。またもやクリスチャン的にはNGな考え方だけれど。

 その6つ目のエピソード『スルーシャの渡しとそん後すべて』は、文明崩壊後の世界を描いている。環境は壊滅的なダメージを受け、人類は絶滅しかかっているが、原始的な狩猟採集生活を営む生存者たちは知る由もない(言語も崩壊しかかっており、原作小説はあえて読みづらい稚拙な文章になっている)。「世の終わり」の後に訪れた、本当の終わりのような世界だ。

 この世界の人種構成は明確なメッセージとなっている。原始的な生活を営む生存者たちがみな白人で、高度な文明を維持して地球を調査研究する「プレシエント族」がみな黒人なのだ。最初のエピソード『アダム・ユーイングの太平洋航海誌』は黒人奴隷を売買する白人たちの話だったから、白人と黒人の立場が完全に逆転している。黒人グループを演じるのはもちろん黒人俳優たちで、何人かはメインキャストに数えられている。これは80年代には考えられなかったことだ。

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 そして80年代に「終末」を迎えていたら、このような変化は起こらなかった。「世の終わり」の危機感を乗り越え、時代が進むことで、世界は少しずつ前進してきた。生きづらかった人たちの生きづらさが少しずつ改善してきた。前項で「世の終わり」は希望でもあると書いたが、世が終わらないこともまた、一つの希望なのだ。

 前者は「酷い世界だから終わってほしい」という希望。後者は「酷い世界だから少しずつ良くしていきたい」という希望。どちらを選ぶかは、信仰の有無や種類にかかわらず、ひとりひとりに委ねられている。

余談

 本稿で紹介したRPG『真・女神転生Ⅱ』は、平たく言えば「善」「悪」「中立」の3つのエンディングに分岐する。「善」は神の側、「悪」は悪魔の側、「中立」はどちらにも与しない(どちらとも対立する)側だ。「中立」でクリアする場合、「終末」をもたらす神も悪魔も倒してしまうので、「終末」そのものが回避され、人間だけの世界になる(それがハッピーエンドかどうかは議論の余地があるだろう)。「人為的な終末」が求められる一方で、「人為的な終末回避」も求められるのだ。終末思想そのものより、「終末」に向き合う人間心理の方が複雑怪奇なのかもしれない。

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(↑「中立」のエンディング。人間だけで新しい世界を作ることになる。)

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