2022.3.17
昨日地震が起きた。
(地震の内容を含みます。見たくない人は見ないでね。)
福島出身で生粋の東北人である自分は何人か知り合いに安否を問うた。
知人は揃えて
あのときのような地震だった。
と言っていた。
あのときやあのときのあとのことを思い出して、仕事でつかれていたけど、少し眠れなくなった。
2011年3月11日の東日本大震災。
当時高校一年生で十年以上前の出来事だけど、昨日のことのように覚えている。
先に断るが、内陸にすんでいたので、津波の被害はない。
14時46分、古文の授業中だった。
僕たちの高校では、一年生の3月に百人一首大会が開かれ、古文の時間でその練習をする、というのが伝統だった。
その時間は机の上に百人一首を並べて練習中だった。
そして突然大きな揺れが来た。
出入口の近くにいた僕はもし扉のフレームが歪んで引き戸が空かなくなったら避難できなくなる、と思い、暴れる引戸を必死に押さえていた。
すごく長い揺れだった。
数日前に、学内新聞で、校舎の耐震強度が低い、震度5くらいで倒壊の可能性アリ、なんていう記事があり、死ぬのかな?って本気で思った。
クラスのみんなその事が頭にあって、長すぎる地震がゆえに倒壊後の救助など、いろんなことが頭にあったかもしれない。少なくとも僕はそうだった。
揺れがおさまり、中庭に避難した。
避難後も何度か余震があった。
すごく寒い日で雪もちらついていた。
みんな不安な顔をしていて、泣いている子もいて、それが嫌で、おちゃらけたりしてみせた。(クラスの女子に怒られたけど)
避難しながら明日からどうなるんだろう、今日は帰れるんだろうか?停電は?そういえば津波なんてのもあるかもな?いろんなことが浮かんだ。
何分か何時間かわからないけど、時間がたって、指示があった。余震の可能性があるけれど、教室に戻って最低限の荷物だけ持って、今日は帰宅、となった。
荷物をとりにもどった、いつも使っている教室が、百人一首の札で散乱して、それは異様だった。
このときは一、二週間休校になるだろうけど、すぐにもどってこれるだろう、みたいな楽観的な考えだった。
部活の先輩と話しても、明日は部活wみたいなふざけた回答が帰ってきて、不謹慎だが、この異様な雰囲気を楽しんでいた。
いざ帰るとなったが、帰る手段がない人は一夜を学校で過ごした人もいたみたい。
幸い僕は自転車があって、近くに母が病院に勤めていて、母に送ってもらうか自力で帰るかだった。
とりあえず母の病院まで自転車で行った。
道中、停電で信号機が止まり、大渋滞しているのをみて、あ、これはヤバイなと思った。
母の病院について、病院で急患があるかもしれないから、僕が先に帰る、ということになった。
近くに一つ上の姉の高校もあって、安否を確認しに行った。
そしたら先に帰る方向が同じ先生の車に乗って帰っている、とのことだった。
母には何かあったら病院に戻って報告するとかそんな取り決めだったので、僕はもう帰路についた。
とはいえ家まで一時間近くかかるため、しんどかった。
家までの道は国道で、海まで続く道だった。
だから、(他の道もそうだったのかもしれないけど)渋滞がすごくひどく、自転車の僕の方がかなり早かった。途中自衛隊の車も何台か見かけて、事態の深刻さを実感した。
途中、姉が乗った車を追い越して、それに気づいた姉と再会した。
自転車を置いていけないし、先に自分が帰るということになった。
なんとか家について、荷物が散乱した部屋をみてショックだった。
この後余震がたくさん来るのでとりあえず放置することにした。
祖父母と一緒に暮らしていたが、祖父は農作業中で外にいて揺れがおさまるまで座っていたこと、祖母は家にいて、すぐに家からでたらしい。
夜になって続々と家族が帰ってきて、安心して、俺は寝た。寝ながら余震が来てたけど、寝た。
途中で起きたりして、週明け以降学校が休校になることが決まり、歓喜した。
地震発生日だけでこんなにいろんなことがあったのか。
書いていて長いとは思ったので、気が向いたときに、これからも震災のことを書いていこうと思う。
とりあえず今回はこんな感じで。
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