2022.3.19

三連休+有給2日

帰省の予定

3日前の地震の影響で新幹線が止まり、鈍行での帰省になった。

予定外と言えば予定外だが、移動中の電車でじっくりノートを書けている点はよかったことの一つかもしれない。

新幹線がなく、人々が鈍行で異動していた時代に想いを馳せる。

列車の設備もよくなく、寒かったり暑かったり、人々はよくそんな乗り物で長距離異動できたなと、文明の進歩を感じる。

あと、今回地震で線路の点検修理をしているが、少なくとも沿線には雇用を産み出していて、非常に重要な産業なのだなと、是非はあれど感心した。

そんな地震が起きて混沌としている中、前回の記事と同じように震災の出来事を綴ろうと思う。

前回は地震発生から家に帰るまでの出来事だった。今回は休校した学校が再開するまでの出来事を少し

学校が休校になって数日が過ぎた。

幸い、停電もなく、井戸水だった我が家はライフラインは整っており、むしろ悠々自適に過ごしていた。

ただ、ガソリンの品薄はやや響いた。

父は教員で母は病院勤務だったので、震災後とはいえ出勤せねばならず、ガソリンの確保は大変だった。

とはいえ、緊急用のガソスタで確保するなど急場をしのいだ。

父は単身赴任をして、沿岸部の高校で教員をしていた。

生徒が一人津波で流されてしまったらしい。

3月下旬か4月上旬に遺体が見つかり、一緒に沿岸に行く事になった。

さすがに遺体をみることはなかったが、父の泣いた顔で震災の悲惨さを実感した。

沿岸部は津波で流されて、なにもなくなっていた。

自然の猛威の前に人間はあまりに無力であった。

原子力発電所の事故も僕には強く影響を与えた。

原子力発電所は50キロくらい離れていたので安全だろうとかのんきに考えていた。

だから普通の春休みのように、姉と庭で七輪で焼きそばを焼いていた。よく晴れた日だった。

その日の午後には発電所が水素爆発していた。

ニュースでみた映像は衝撃だった。

これから先、ここには住めなくなる、非現実的だった避難が急に現実味を帯びた。

我が家も放射線を気にして過ごすことになった。

爆発から数日後にすごく雨が降った日があった。

春の嵐とも言うべきか季節の風物詩のような雨

この雨で住んでいる地域に多くの放射性物質が飛散した。

このときはなにも知らなかったが。

数日後に暇をもて余していた俺は、側溝に入り掃除をしていたけど、あれは放射線を大量に浴びただけだと思う。

ところで、学校の再開は4月以降になるようだった。

原発近くの非難してきた住民が高校の体育館で避難生活をすることになった。

避難者は別の場所に移り、原発事故もとりあえず応急でしのいでいるということで、学校も再開することになった。

4月下旬、ゴールデンウィーク前からの再開だった。

長い春休み期間中、昼夜逆転していた僕は、焦ったけど、久しぶりに会えるみんなにワクワクしていた。

けれどもそれは震災後の怒涛な日々の幕開けだった。

まあ、ここからは後日ということで

疲れてしまった+福島についたので~

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